第8話


         ※


 クラゲコーナーに向かう途中、僕は奇妙な感覚に見舞われた。


「ん……?」


 何だろう。ただ速足で歩いているだけなのに、僕は体幹が曲がっていくような、三半規管が狂ってしまったような、奇妙な感覚。

 精神安定剤はきちんと飲んできた。いつもならそれが効果を発揮して、僕に人並の運動能力を授けてくれるはずだ。

 ――そのはずなのだけれど、現状の状況は、一言で言えば『非常事態』といっても過言ではない。


 また小さく舌打ちをして、僕は壁面に手をついた。

 これでは危ない。なんの支えもなく歩こうとすれば、間違いなく転倒する。

 そんな警報が、僕の脳内でわんわんと鳴り響く。


「どうして今日に限って……!」


 大川室長に早退する旨を伝えれば、それでいいのだろう。だが今の僕にとっては、危機感に比べても好奇心の方が上回っていた。


 それがおかしな事態だということも把握はしている。だがこの好奇心というのは、スポーツ中継を見て湧き上がる興奮や、映画を見て次の展開が気になって仕方ないという知的欲求などとは程遠い。


 変形? 変身? まあとにかく、海月の姿と人間の姿、それを行き来していた『彼女』にもう一度会ってみたい。それが、今の僕にとっては最も望むところだった。

 理由? 知ったこっちゃない。いや、いつもならこんな乱暴な言葉で事態を整理するようなことはしないのだが。


 僕は海月少女のことと自分のこと、その二つの懸念事項で押し潰されていた。自分で言うのもなんだが、いつもの僕の冷静さはどこへ行ってしまったのだろうか。


         ※


 そんなことを考えながら、僕は一歩一歩、クラゲコーナーを歩んでいく。ベニクラゲの漂っている水槽に向かって。


「ここを曲がれば……!」


 僕は順路に従い、ベニクラゲのいる水槽を視界に入れた。が、しかし。


「あれ……?」


 彼女がいない? どうしたんだ? 昨日はあれだけ元気そうに、女の子の姿でふわふわしていたのに。もちろん周囲を憚らずに、だ。


 僕は彼女を呼ぼうとも思ったが、すぐに諦めた。水族館の警備員とて、流石に海月一体一体に名前をつけているわけではない。これでは呼びつけようがないし、そもそも耐圧ガラスの向こうにいる何か(誰か)に向かって叫んだところで、向こうに聞こえるわけがない。


「……」


 だんだん自分が愚かで幼稚、加えてみすぼらしい存在であることに気づかされた。

 今日の閉館時刻は、たまたま夕方頃だった。昨日彼女と会った時は、すでに日は完全に沈んでいたはず。


「そうか……」


 僕は焦りすぎたのだ。ただでさえ、もう一度彼女が姿を見せてくれる保証はない。現れてくれと願ったところで、都合よく事態が動いてくれるとも思えない。

 どうしたものかと、ふらつきながら僕は考える。結局のところ、僕にできるのは背中を壁に預け、転倒を防ぎながらベニクラゲの水槽を見つめることだけだ。


         ※


 いつの間にか、僕はソファに横たわっていた。記憶が飛んでいる。

 どうやら眠りこけてしまったらしい。自分からソファに横たわった記憶はないが、きっと寝ぼけているのだろう。


 いや、待てよ。

 僕だって一応は成人男性だ。壁にもたれてうつらうつらしている僕を横向きにして、わざわざソファに寝かせるようなことをする人間がいるだろうか?


 当然、花宮や大川室長には無理だ。谷木がいてくれればどうにかなるかもしれないが……。

 いや、それでもおかしい。僕を寝かせた人物の動機がさっぱり分からない。


「いったい何のために……?」


 僕は起き上がり、自分の掌を見つめながら、手を握ったり閉じたりした。困った時の癖のようなものだ。

 しかし、いつもと決定的に違うことがある。僕の右手に、ひんやりした感覚が走ったのだ。


「うわっ!?」


 僕はよろけてソファに尻餅をついた。何なんだ、今の感覚は?

 

(あっ、ごめんごめん! 人間って哺乳類だよね? 哺乳類は恒温動物だから、ヒヤッとさせても大丈夫だと思ったんだけど……)

「なっ、何言ってるんだ! 僕は今、すごく重要な考え事を――って、あれ?」


 僕は感じた。自分の目と顎が、これでもかとばかりに見開かれるのを。

 慌てて顔を上げると、そこにいたのは紛れもなく、昨日のクラゲ少女だった。

 半透明青い身体に、同色のワンピースを身に着け、僅かに笑みを浮かべている。


(ん?)


 彼女は笑みを崩さずに、大袈裟に首を傾げてみせた。どこかアニメやコミックのヒロインっぽい空気が漂う。


 って、そんな考察をしている場合ではない。何らかのトラブル(飼育している動植物に異変があった時など)に備えて、僕たち警備員は小型の無線機を託されているのだ。慌てて胸元の小型無線機のスイッチを押そうとした、まさにその時。


 がしゃん、という音がして、僅かに指先に痛みが走った。ちょうど、紙切れで傷つけてしまったような裂傷に伴う痛みだ。

 本来なら傷口の消毒をするところだが、クラゲ少女が言葉を発する方が早かった。


(ああっ! ごめんなさい! あなたを傷つけるつもりはなかったの!)

「え、あ、いや……」

(本当なら、その無線機だけを壊すつもりだったんだけど……)


 微妙な沈黙が流れる。が、流れきる前に僕は無線機を放り投げていた。飛び退いてじっくり見遣る。無線機は、見事に中央部分を貫通され、なんの機能もないガラクタに成り下がっていた。


 僕が思ったのは、自分も同じような目に遭わされるのではないか? ということ。

 たとえ姿が麗しい少女だったとしても、未知の存在である以上、一旦ここから離れるべきだ。いや、ただ単に僕がビビっているだけなのだけれど。


「たっ、たたた頼む! 命だけは勘弁してくれ! っていうか、君は何しにここに……ベニクラゲの水槽にいるんだ? いつ、どうやって入ってきた!?」

(待って! 一つずつ答えるから、頭を整理させて)


 我ながら、今の自分は狂っていると思う。逃げようとしながら、相手、すなわちクラゲ少女には興味関心を丸出しにしている。矛盾しているな……。


(ええっと、全てを伝えるわけにはいかないし、私にも分からないことがたくさんあるのだけれど……。私がやってきた時に、一番都合がよかったの。あなたたちが『ベニクラゲ』って呼んでいる生物の特性を取り込むことがね)

「へ、へえ……?」


 ベニクラゲの特性。よく知っている。

 他のクラゲとの差異を一言で表すなら、不老不死であるということだ。海月自体、全般的な奇妙な成長プロセスを経る。だが、ベニクラゲはその過程で『若返る』ことができてしまう。


 僕が水族館の、それもクラゲコーナーの警備担当に回されたのは、ベニクラゲという不思議な存在を観察する上で極めて有効だったといっていい。


「……どうせ死んじゃうもんな、人間は」

(ん? 何か言った?)

「ああ、いや、またちょっと考え事を……って待って! それ以上近づかないでくれ! 僕は君に何の害にもならないよ! 頼む、命だけは……!」


 って、これでは会話が堂々巡りだ。

 

「あの、君と遭遇した経験があるのは、ここには僕しかいないんだ。仲間を呼んできてもいいか?」

(うん、構わないよ。いずれ挨拶はした方がいいと思ってたからね、私も)


 その言葉に首肯しながら、僕は自分の心臓の上あたりに手を遣った。……のだが、胸ポケットには何も入っていない。ああ、無線機はクラゲ少女に破壊されてしまったからか。


(ああー、ごめんね、あなたたちの通信装置を壊しちゃったんだね、私)


 いや、今更謝られても困るのだが。

 僕が顔を顰めていると、すっと何かがクラゲ少女の背部に引っ込んだ。長い鞭? 触手?そんなものが、あちこちから素早く収納される。目にもとまらぬ速さ、とはまさにこのことか。


(じゃあいいよ、できるだけ早く戻って来てね)

「あ、ああ、善処するよ……」


 僕がそう告げた。ふらつく足元をしっかりさせるべく、その場で地団太を踏んで、浮ついた身体感覚をどうにかいつも通りにする。


「よ、よし、君はそこにいてくれよ、今すぐ僕が、皆を連れてやってくるから」

「その手間は不要だわ、蒼樹凪人くん」


 突然の声に振り返ると、そこには大川室長が立っていた。その両側には、腹心の部下よろしく谷木と花宮がひざまずいている。


「話は聞かせてもらったからね」


 にやり、と大川室長は口元を吊り上げた。

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