第7話【第二章】

【第二章】


 聞き慣れた電子音が、僕の鼓膜を優しく撫でていく。青々とした空から降り注ぐ日光は、少しだけ遮光カーテンを透過して、僕の網膜に差し込んでくる。

 どうやら起床時刻になったようだ。


「ん……」


 僕はもぞもぞとベッドの上で上半身を起こした。思いっきり大きな欠伸をする。


 そうか。昨日は優太郎に相談事を持ち掛けていたんだったな。クラゲ少女の件だ。その後は――。


「記憶が、ない……?」


 冗談じゃない。だったら昨日の話し合いは何だったんだ?

 僅かに残った脳内情報を引っ張ってみる。ああ、確かにどんな結論に至ったかは、完全に僕の脳内から抹消されている。

 代わりに僕が思い出したのは、優太郎が僕をこの部屋まで連れてきてくれた、ということ。

 肩を貸しながら酔った男一人を運んでくるのは、大変な苦行だったのではないか。


「すまないな、優太郎……」


 僕は昨日のお礼とお詫び、それから『これからもよろしく』という旨をまとめたLINEを送り、すぐにベッドに放り投げた。


「そろそろ出かけないとな」


 今日も今日とて警備員のバイトである。

 真っ先に思ったのは、やはりクラゲ少女のこと。彼女の存在を知っているのは、今は僕だけだ。あまり関係者を増やすべきではない。そんな直感もあって、僕は夜間の最終巡回を自分一人に任せてもらおうと考えた。


 二日連続で、あのクラゲ少女は出現するだろうか?

 こちらの人数が多いと、少女は気圧されて逆に身を固めてしまうかもしれない。うん、やっぱりしばらくは、僕一人でひっそり見にいってみよう。


「よし……」


 一応とはいえ結論に至ったことで、僕は落ち着いてくる自分の心を感じた。ふっと短い溜息をつき、胸に手を当て、その溜息を繰り返す。

 落ち着け。ゆっくりでいい。でも上手くやれよ、蒼樹凪人。


 外出時に最低限持ち出すべきものは、リュックサックに入っている。まるで、自分たちは準備万端だとでもいうように。それだけで、僕は勇気づけられるような気分になった。

 パジャマを適当に洗濯機に投げ入れ、ジャージ状の服装に着替えて、僕は誰もいない空間に向かって声をかけた。


「行ってきます」


         ※


「うわっ、マジか」


 あまりの日光の強さに、僕はさっと手を目の上に当てた。あまりにも眩しかったのだ。この前動画サイトの宣伝にあった遮光サングラスの購入を、僕も考えた方がいいのかもしれない。


 自転車を止めて施錠し、スタッフ専用と書かれた看板を確認する。進入禁止のロープを跨いで、そのまま建物の裏へ。

 警備員としての認証カードと、顔認証システムの二重ロックを突破して、開放されたドアを引き開け、そのまま踏み入る。


 同じ建物内にある警備員室だが、これだけの過程を経なければ到達することはできない。最近はいろいろと、『信じる』ことがままならなくなってきたな。

 さて、まずは大川室長に謝らなければ。若い若いとよく言われるからといって、いつまでも周囲に甘えてはいられない。


 そもそも、自分の若さが強調されるのは、大学を卒業できずに足踏みしているからだ。

 そんな僕を励ますつもりで、大人たちが言うわけで……って、あれ? 『大人と子供』という棲み分けをしていては、いつまで経っても自分自身が大人になることはできないのではないか……?


「まったく!」


 僕は誰もいない廊下を歩きながら、強く自分の頬を引っ叩いた。


         ※


「おはようございます」


 開口一番、僕はそう言い放った。警備の仕事は夜間に行われるから、僕たちからすればこれからが仕事の時間。だから皆、挨拶する時は『おはようございます』と言うことにしている。


「あら凪人くん、おはよう。今日は早いのね」

「ええ、そういう大川室長も、こんな時間にいらっしゃるとは珍しいですね」

「ま、いろいろあるのよ。少数精鋭とはいえ、ある程度の人数をまとめて仕事をしていると、どうしてもね」


 ある程度の人数。いろんな性格。あまりにも膨大なパターンから選び取られる、誰かと誰かの人間関係。

 せっかく築き上げてきたものを、この場で(というか昨日のようなパターンで)叩き壊すわけにはいかない。


「室長」

「ん?」

「……申し訳ありませんでした」


 あれ? もっと勢いよく頭を下げる予定だったのだが。なんだか声にも覇気がないし。

 っていうか、土下座するはずのところを勝手に立ったままお辞儀してるし。これで誠意なんて伝わるものだろうか?


「まあまあ、顔を上げなさいな」

「で、でも……」

「それとも、その角度からなら私の胸を覗き込めると思ってる?」

「ぶふっ!?」


 からからと笑い声を上げる室長。当然僕は顔を上げ、抗議した。


「わっ、笑いのネタにしないでください! 僕だって、クビにされるかもしれないと思ってビビってるんですから!」

「本気でビビってる人は、自分から『ビビってる』なんて言わないの! 何も言えなくなっちゃう」

「む……」


 僕がぎゅっと唇を結ぶと、室長はこんなことを言い出した。きゅるり、と回転椅子を遊び半分で一周させてから、ふむ、と唸って腕を組む。


「あたいもねえ、あんまり覚えちゃいないんだけど、酔っぱらって警備任務に就く、っていうのは人間としてどうなのかしら、と思ってはいるのよ」


 すると室長は振り返り、僕から顔を背けながら、前回の合コンがどうだったとか、アラサーって何なんだとか、売れ残りにはなりたくないとか、やたら不吉な言葉を吐き出し始めた。

 ……聞かなかったことにしよう、うん。


「ま、まあ、室長にもいろいろある、ってこと……ですね?」

「分かってくれる? 凪人くん……」

「何となくは分かりますけど。でも僕は、あんまり人と交友関係を持つのが得意とは言えませんからね……。なんと申し上げたらよいのか――」


 そこまで言いかけて、僕は驚いた。真後ろから、まったく唐突にガシャン! と音がしたからだ。


「ぬおっ!?」


 驚きこそしたものの、それはただのドアの開閉音だった。


「ぐおっ! って凪人先輩! 何やってるんすか、こんなところで?」

「ああ、すまない。ちょっとな……」


 ふぅん? と肩を竦める谷木。それに対し、同行してきた花宮は、じっと僕を睨みつけてきた。


「つまり凪人先輩は、年上が好みってことですね?」

「は、はあ……? 何を言って――」


 と言いかけて振り返ると、そこには室長がいた。何故か下着姿で。

 何が起こっているのかさっぱり分からず、僕は七転八倒する。


「ほらぁ! 耕助くんも見たでしょぉ? これだから男の人は……」

「安心しろ、絵梨ちゃん! 俺は何にも見てないぜ!」

「きゃあ! 流石あたしのダーリンだわ! ちゃんと気配りができるのね!」


 気配りって……。そんなもの、狙ってできることじゃないだろうに。


「ああ、ごめんごめん! すぐに服着るから、ちょっと待ってて!」


 どうしてこうも、僕の株が下がるのかなあ!! テレビでやってる占いの結果を、きちんと見ておくべきだった!! ……のか?


         ※


 こんな茶番はさておき。

 僕は今日から、自分がクラゲコーナーの巡回を担当すると申し出た。ここにいる四人で、クラゲ少女と交流できたのは僕だけだ。


 どうして彼女に注意を惹かれてしまうのか。それを確かめなければ。

 さもないと、僕は今後の生活の諸々のことに集中できなくなってしまいそうだ。


 早々に警備員室を出て、彼女に会ってみたい。だが今はまだ開館時間中である。

 閉館時刻は午後八時。それまでは、飼育員や清掃係のスタッフたちと状況の詳細な遣り取りを行う。デスクに固定電話が置かれているのはこのためだ。


         ※


 僕たち全員が着替えを完了し、通話任務にあたることしばし。

 飲み物の買い出しに行ってくれた花宮から無糖コーヒーを受け取り、喉に通していく。意外と美味いな、たまに飲んでみると。


 また騒がしい時間を経て、ようやく時刻は午後八時を迎えた。

 毎日のことではあるが、今日もまた『蛍の光』が流れてくる。たまには別な曲にしてほしいのだけれど、勘違いする人が出ても困るので、僕は気にしないことにしている。


「……さて! 今日のデスクワークはお終い! 皆、巡回するから忘れ物のないようにね! んじゃ! これから先は無線機で遣り取りよろしくね!」


 僕はいつになく足早に、クラゲコーナーに向かうことにした。

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