第6話


         ※


「ただいま~」


 誰もいない部屋の玄関で、僕はフローリングに踏み込んだ。びたっ、と音がしたので見下ろすと、汗が滝のように流れていた。シャツを捻ればいくらでも絞り出てきそうだ。

 自転車で走っている間は意識しなかったが、駐輪所に停まってからは嫌というほど感じられた。夏特有の、空気のどんよりとした重さだ。


 晴天とはいえ、それは人間が勝手に作り出した基準であり、晴れていればいいってもんじゃない。温度も湿度も最悪だ。室内だから風は吹いてこない。

 僕は顔を顰めながら、脱ぎにくかったスニーカーを放り捨てるようにして足先から吹っ飛ばした。前のめりになりながら、エアコンのリモコンを手に取る。室内の気温をセンサーで察知したのだろう、『適温』との表示が出る。


「チッ……」


 僕は舌打ちしながら、設定温度を適温から一気に引き下げた。外気との差は十五度近くに及んだが、知ったこっちゃない。


 取り敢えず、今日中に『助っ人』に会えるという確証が得られたのだ。

 何も焦る必要はないし、苛立つ必然性が感じられない。

 まったく、僕は何をぐずぐずしているのだろう。


「ふん……」


 食欲はない。だが、水分を摂取すべきだという本能は働いている。

 僕はキッチンのシンクに向かって足を踏み出した。夏には不似合いな大きめのマグカップを手に取り、なみなみと水を汲んだ。

 そのままぐびり、ぐびりと喉仏を上下させながら一気飲み。

 久々に酒を飲みたくなった。というより、酔いたくなった。

 

 意識を失って他人様に迷惑をかけるんじゃないか。

 そう言って自分を諫めようとするもう一人の自分がいたが、『本物の』僕自身はその意見を一蹴した。


 では、『本物の』僕に代案を出すことができたかといえば、全くそんなことはなかった。それこそ、僕の心はベニクラゲの水槽の前に現れた少女に囚われている。

 そこから意味不明になって、慌てて、喚き立てて……。


 自分を落ち着かせようと思い、僕はスマホを手に取った。メールもLINEも着信も確認したが、誰からも連絡はなし。


「来るとしたら午後だよな」


 何が来るのか? 最も気にしていたのは、音声通話の着信だ。相手も大方予想がついている。こういう話だったら室長が直々に言い渡してくるだろう。お前はクビだ! とかいうタイプの。

 ……やれやれ、まったく難儀な人生だな。


 僕はシャワーを浴びる間もなく、フローリングに横たわってそのまま寝入ってしまった。


         ※


 軽い硬質な感覚に、僕は目を覚ました。

 フローリングに、不自然な姿勢で寝転がっていたせいだろう。身体の節々が痛む。


「ん……」


 昨日のうちに掃除しておいてよかった。でなければ、今頃僕は埃まみれになって、呼吸器系を潰されていたかもしれない。


「あれ?」


 そうだ。どうして今目が覚めたのだろう。身体の痛みのせいばかりではないはずだ。

 何かきっかけになることが――。

 と、思いを巡らせたところで、ようやく手元にスマホがあるのに気づいた。

 振動しているが……って、これは着信じゃないか!


「もっ、もしもし? 優太郎か?」

《俺以外に誰がいるんだよ》


 端的に友人の少なさを指摘されてしまったようで、僕は少しばかり傷ついた。


《ってか、もう午後八時だ。約束の時間なんだが?》

「うわあ、ごめん! 今すぐ行く」

《あーあー、そう焦るなよ。水臭いぜ》

「う……」


 電話の向こうからは、軽くて嫌味のない溜息が聞こえてくる。雑音が多いのは、きっと通話の相手が繁華街の入口にいるからだろう。


《何でもいいけどよ、身綺麗にしてきてくれよ? 俺にも立場ってもんがあるからな》


 そう言われると、僕はいつも肩を落としてしまう。彼の――藤野優太郎の順風満帆な人生というものを考えると、僕は友人ではなく、ただのモブキャラにしか見えていないのかも。そんなことを思ってしまう。


《おいおい、電話越しにお通夜みてえな雰囲気を送ってくるな。俺は待つぶんには構わねえから》

「あ、ああ、すまない……」

《シャワーでも浴びるこった。命の洗濯だぜ》


 どこかで聞いたような言葉だが……まあいいか。

 僕は通話を終えて、さっさとシャワーを浴び、夜の繁華街へと繰り出した。


         ※


「凪人くん遅刻でーす。十二分四十一秒、最高記録でーす」


 いかにもかったるい風で僕を叱責し始めたのは、今日の電話の相手、藤野優太郎だ。

 対する僕は、何故かわざわざ走ってきてしまったので、再び汗だくである。


 優太郎は高校時代からの同期で、学年でもずば抜けた秀才だった。


「なあ優太郎、お前、今は何してるんだ?」

「感覚神経の連係動作について、ちょっとな」


 こいつの場合、『ちょっと』と断りを入れる時は注意しなければならない。文字通り『ちょっと』『あと少し』なのだ。画期的な発明・発見に至るまでは。


「悪いな、こんな時に呼び立てて……」

「気にすんなよ。自分の研究と友人の相談事を天秤にかけるほど、俺は薄情じゃねえ。友情ってのも、捨てたもんじゃないぜ」

「そいつはありがたいな……」


 僕は未だ優太郎に、どうして今日会いたいのかということを告げたわけではない。

 それでも彼は『友人(つまり僕)の相談事』が只ならぬ事案であることを、しっかり理解してくれているようだ。

 それは、彼のサングラス越しに見える鋭い眼光から感じられる。


         ※


 思い出すのも今更だが、優太郎は確かに僕に大きな借りがある。彼の目には先天性の異常があり、時々色の識別が難しくなることがあった。

 それをきっかけに、クラスのガキ大将が優太郎を標的に、五、六人の部下を引き連れていじめ、否、集団暴行に走ったことがある。


 当時、僕らは小学五年生。悪い遊びに挑戦したい! という思いがピークに達していた。

 それは分かる。だが、僕はなんとなく、その流れに呑まれたくはなかった。だからこそ優太郎を救うべく、ガキ大将にドロップキックを見舞ったのだ。


 今の僕からは考えられない蛮行である。だが、理由は分からないが、目の前でうずくまっている藤野優太郎という同級生を救ってやりたい、という意志は明確だった。それ以降の腐れ縁、というやつだ。


         ※


「しかしなあ、優太郎……」

「あん?」

「留年も停学もなしで医学部現役合格するような学生が、そんな格好するか?」

「ま、いいじゃねえか。御恩と奉公ってもんだ」

「そんな単純な……」


 僕はやれやれとかぶりを振った。

 優太郎の今の格好といったら、まあ、かっこいい……と思う人もいるかもしれない。だが、僕には何が何だかさっぱりだ。


 両耳合わせて七、八個ほどのピアスをぶら提げ、高さを合わせるようにしてサングラスを装備。高い鼻はそのままだが、上唇にもピアスがある。

 肩口で切れた銀色のジャケットに、対照的に地味なダメージジーンズ。


 ううむ。仮に僕が難病に罹り、主治医を紹介された瞬間にこんなのが出てきたら、そのまま卒倒してしまうかもしれない。


「今日も奢ってやるよ、凪人。どんな店がいい?」

「じゃあ、お前が最近ハマってる店でも紹介してくれ」

「了解! すぐそこなんだ、歩いて行こう」


 こうして、僕は優太郎に多大な恩義を感じつつ、肩を並べて歩き出した。


         ※


「ほほーう、クラゲの化け女、か」

「そんなもの、見えるもんなのかな? 僕以外の人間には見えていないのかもしれない」


 答えながら、僕は洋風のバーのカウンター席で、優太郎と肩を並べていた。

 僕の前には度数の低いカクテルが、優太郎の前にはウィスキーのロックが置かれている。

 なるほど、木目調の壁面といい、明度の低い落ち着いた照明といい、優太郎が惚れこむわけだ。


 氷をからんからん、と鳴らしながら、優太郎は口を開いた。


「ふむ、監視カメラからは死角だった、と。クラゲちゃんも随分計算高いみてえだな」

「ああ……」


 僕もそっと自分のグラスに口をつける。じわり、とアルコール特有の温もりが、胃の底を軽く炙る。そんな感じだ。


「でも、姿かたちは人間に合わせて調整してるんだろ? だったら狙いは二つのうち一つだ。一つ目は、人間が油断した隙に捕食すること」

「んぐっ!?」


 僕は数回咳をして、優太郎に背中を擦ってもらった。


「人を、食べるってこと……。そうなのか?」

「いやいや、俺は当事者じゃねえからな、思ってることを言うだけだ。んで、二つ目の理由だが、もしかしたら地球人類と交流を持とうとしているのかもしれない。宇宙人やら宇宙生物が皆、人類の敵だって考えは古すぎる」

「そ、そう、かもな……」


 なるほど、分かりやすい選択肢である。

 明日は、水族館はいつも通り開館するから、閉館後にでもベニクラゲの水槽の前に行ってみるか。 

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