第5話
※
それからどのくらいの時間が経過しただろうか。そう長くはないだろうと思うのだけれど、どうやら一番呑気だったのは僕らしい。
「あーーーっ! 凪人先輩、またこんなところに!」
「どうした、絵梨ちゃん! お化けでも出たのか!? なんなら俺がサイコキネシスでぶっ飛ばして……って先輩! いつの間に死んだんですか!?」
馬鹿言わないでくれ、生きてるよ――。普段ならそう答えたはず。
しかし、今は違う。
どうしてこんなに苛立つのか? この不安の原因は?
それは元より、さっきの少女は何者だったんだ……?
気づけば、僕の前には顔を寄せ合うようにして、谷木と花宮が迫ってきていた。
谷木は、僕の眼前で手をひらひらさせて意識の有無を確認している。
かと思えば花宮は花宮で、僕の頭上からミネラルウォーターをぶちまけていた。
これには流石に、僕も放心状態から覚醒せざるを得なかった。
「ぷわっ!」
「おわぁ! 幽霊が生き返った! ゾンビだ、ゾンビ!」
「馬鹿だな耕助……。人を勝手に殺すなよ……」
僕はゆっくりと床に手をつき、立ち上がった。
「下がれ、絵梨ちゃん! 俺に構わず、早くここから離れるんだ!」
「そ、そんな! あなたを置いてはいけないわ!」
ううむ、相変わらずの馬鹿ップルぶり。これ以上ない茶番である。しかし、怒りが湧いてくることはなかった。様々な感情が相殺し合って無の境地に至ったのだろうか? 不思議なものだ。
自分が随分と温厚な人間だという自覚はある。だから怒る気にならない、ということだろうか。
いいや違う。
胸中で、もう一人の自分が喚き立てている。あの、ベニクラゲの水槽から抜け出してきた女の子。彼女の存在が、僕の心の芯の部分を揺さぶっているのだ。
どうしてこんなにも、僕は彼女の存在に戸惑い、動揺し、そして一抹の希望を抱くのだろう。というか、問題にすべきは彼女の正体であり、僕が自身の気持ちを分析するのはその後でいい。
ん? それはどういうことだ? 僕はいったい何に巻き込まれ、そして何がしたいんだ? ああもう、脳が頭蓋骨をぶち破らん限りに暴れ出しているかのようだ。自分で自分のことが分からない。
こんな当たり前のことすら考えの及ばなかった自分に、僕は自己嫌悪に陥りそうになる。一分一秒でも早く手を打った方がいいな。
「谷木くん、花宮さん、申し訳ないんだけれど、僕の担当している区画の巡回を頼めるかな」
「あっれぇ~? 先輩、サボりっすかぁ?」
「やめなよ、耕助くん」
谷木の悪気のないからかいの言葉。それを窘めたのは、意外なことに花宮だった。
「凪人先輩、これ、警備員室の鍵です。一人で行けますか?」
「ああ、大丈夫だ。すまないね、二人共……」
「いえ! いつもお世話になってますから! ね、耕助くん!」
「え? あ、何?」
すっとぼけてみせる谷木の頭部に、無言で手刀を見舞う花宮。これには谷木も黙り込まざるを得なかった。
「それじゃ頼むよ、二人共」
「はい。先輩も気をつけてくださいね」
僕は花宮に向かって大きく頷き、やや覚束ない足取りで警備員室へ向かった。
※
がちゃがちゃとドアノブを揺すること、三、四回。
僕の脳内の混乱っぷりは、まさに極まりつつあった。あまりにも多くの謎が噴出している。まるで火山から吹き上がるマグマのように。お陰で扉の開錠作業すら困難になっていた。
早くこの浮ついた気持ちを落ち着けなければ。
僕は蛍光灯を点け、自分のデスクに置いたリュックサックをすぐさま捕捉。薬局の紙袋を取り出し、急いで規定量ギリギリの分量の錠剤を取り出す。
それを口に入れてから気づいた。水だ。水で胃に流し込まなければ。再び僕は、リュックサックを漁った。が、しかし。
「……!」
いつも使っている水筒がない。考えられる現在の水筒の所在は、アパートのリビングだろう。いつも携帯していた水筒。これを置いて外出してしまうとは、致命的にもほどがある。
こうなったら仕方がない。舌の上にじんわりと広がっていく酷い苦み。それを意識の外へ追い出しながら、男子トイレに駆け込む。そして手洗い場の蛇口を思いっきり捻り、水を手ですくって口へ運んだ。
結果、薬剤の摂取には成功した。ただし『辛うじて』である。
未だに舌の上側には、耐えがたいほどの不快な苦みが残ってしまっている。
本当なら、ぐびぐびと麦茶を飲んで食道を一直線に辿って飲み込むところだ。しかし、ないものはない。それに、後輩二人にばかり仕事を任せてしまったのも気になる。
「今度アイスクリームでも奢ろうかな……」
と、思ってみたはいいものの、自己嫌悪――というより自己懐疑状態に陥ってしまった。
自分で自分のことが信用ならない。というか、分からないことが多すぎてまともに動けない。
あのベニクラゲの水槽から現れた少女の目には、確かに僕に訴えかける何かがあった。
あれはどういう意味だったのだろう? 逆に僕は、彼女の目にはどう映っていたのだろう?
というか、ようやく精神安定剤を飲めたのだから、こんな謎しか生まないようなことについて考える必要もあるまい。
僕は皆のデスクに、体調不良のため今日のバイトは休むという旨の手紙を残し、ゆっくりとドアを開け、施錠して(今度は上手くいった)早々に帰宅することにした。
手間はかかったかもしれない。だが、直接無線で大川室長に『今日は帰ります』とは言えなかった。そんな度胸は僕にはない。
誤解してはいけないところがあるとすれば、敵は室長ではなく僕自身だということだ。
職場の仲間との声を聞くことすら、今の僕には失神しかねないような恐怖を伴っている。
勘弁してくれ。
僕は物心ついた頃から、ずっとこの現象に苛まれてきた。きっと、これからも。
そう思うと、自分の人生が何者か――神様、とでも言えばいいのだろうか――の手の上で転がされているような気分になってくる。
「どうして僕はこんな調子なんだ……?」
がつん、と自分のデスクに右手で鉄拳を一発。突発的な所作だった。デスクには傷一つつかなかったが、僕の拳だって痛くも何ともない。
「畜生……!」
僕は右手を開き、裏返して掌の方を見つめた。それこそ、穴が空くほどに。
それから両方のこめかみに指先を押しつけるようにして、ぐっと力を込めた。嫌な現実を、まずは視覚からシャットアウトしようというわけだ。
それから警備員の服を適当に脱ぎ散らかし、鍵もドアノブを何もかもを無視して、足早に業務員用通路を歩いて館内から立ち去った。
※
外はまさに晴天だった。暑い。僕は、サドルの上でステーキが焼けるんじゃないかと思うような自転車にまたがった。
「おっと……」
チェーンタイプの鍵を開けていなかったな。これで漕ぎだしたら、勢いよく転倒するところだった。
こんな日に水族館が休館日とは、なんとももったいない。それでも警備業務をきちんと行うのだから、日本人の警戒心の高さは大したものだ。
僕の住んでいるアパートは、水族館と大学のキャンパスの間にある。近くにスーパーもコンビニもある。随分と便利でお気楽な立地だ。
暑さにやられたのか、それとも空の青さに胸を打たれたのか。取り敢えず、さっきまでの怒りの波は引いたようだ。
「ふう……」
信号待ちをする間に、僕は額から滴る汗を拭い、そっと左胸に手を当てた。
大丈夫。大丈夫だぞ、蒼樹凪人。僕は生まれて二十三年になるけれど、酷い悪事を働いてきたわけじゃない。神様の怒りを一身に受けて木端微塵にされてしまうようなことは起こらないんだ。
目を閉じて深呼吸を繰り返すこと数回。
ああ、そう言えばここのT字路は、随分と歩行者を待たせるものだと評判の信号が配備されているんだったな。
人間は、自分一人だけで、自分という人間を制御しきることは不可能だ。
これは僕の持論に過ぎないが、今までの人生経験上得てきた事実でもある。
要するに、誰かと話をすればいいのだ。そしてその相手として、絶好の相手を知っている。
信号が青に変わる前に、僕はそいつの電話番号を入力し、通話ボタンを押し込んでいた。
「あっ、もしもし? 僕、蒼樹凪人だけど――」
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