第4話
※
翌日は休館日だった。
不幸中の幸いだ。これなら大川室長を逃がさないようにして、反省の機会を与えることができる。
室長は無遅刻・無欠席。理由は定かでないが、今までの傾向からすれば今日も早々にやってくる……はず。昨日の飲酒騒ぎについての一幕は、僕たち三人立ち合いの下、きちんと報告書を書かせるつもりだ。
どうして僕や谷木、花宮たちが飲酒に厳しいのか? 理由は単純で、飼育している生物たちの身体に異常が発生した場合、すぐに素面で対応するべきだと考えているからだ。
どれだけ酒に自信のある人でも、少なからず楽観的になりすぎたり、些細なミスを犯したりするものだし。
それでも『完全禁酒』と言うのは言い過ぎだろう。『館内での飲酒禁止』とでもしておこうか。誰も室長のプライベートにまで踏み込むような真似はしたくない。
しかしそれは、手加減するという意味ではない。僕がまともに大学に通っていた期間は長くはないが、それでも酒やら煙草やら女やらに惑わされて、必修単位を取りこぼしていく知人を見ている。
考えてみれば、室長だってまだまだ若いのだ。確か二十代だったはず。立場上意識しないだけで、実際美人だと思う。
ここで室長がキャリアを投げ打ってしまうのは、あまりにも無粋というか愚策というか……、そう、気の毒だと思う。
顎に手を遣って黙考している僕の耳に、花宮の声が入ってきた。
「でも、どう話せばいいんですぅ? 室長、怒ると怖いですよぉ?」
「え? 花宮さんは室長に怒られたことあるの?」
僕が眉を上げながら振り返ると、ありませんけど、という答えが返ってきた。思わずズッコケそうになる。
「よく言うじゃないですかぁ、日頃優しい人こそ、怒らせると怖いって」
「あ、俺知ってるよそれ! さっすが、俺の絵梨ちゃんは頭がいいなあ!」
「ちょっ、耕助くん! どさくさに紛れて頭撫でないでよぅ!」
平和なもんである。ここは年長者の僕が先陣を切って、室長にガツンと言わなければならないだろう。そんなキャラじゃないんだけどな、僕は。
「じゃあ、給料分の働きはしておこう。昨日と同じエリア分けで、各々異常がないか確かめること。いつも通りだけど、質問は?」
後輩二人が首を横に振る。それを確認してから、僕は自分の担当エリアに踏み込んだ。
もしかしたら、またクラゲのエリアで足を止めてしまうかもしれないが。
※
僕の、僕自身に対する予想は、見事的中することになった。気がついた時には、昨日と同じようにベニクラゲの水槽の前のソファでぼんやりしていたのだ。
誰かに声をかけられる前に気づけたのは、それこそ不幸中の幸い。下手をすると、僕まで職務放棄の疑いで裁かれかねない。
「おっと、これじゃ駄目だな……」
僕が腰を上げ、のっそりとその場を立ち去ろうとした時のこと。
「ッ!」
誰かに肩を叩かれた。谷木が悪戯をしに来たのだろうか?
いや、あいつは合理性優先の男だ。職務中に僕に悪戯を仕掛けてくるとは考えにくい。
花宮なら猶更である。挑戦する前にギブアップしてしまうだろう。
「誰だ……?」
僕がゆっくりと声を上げると、さっきとは反対側の肩を叩かれた。
誰かがいるのは分かったが、それが何者なのかはさっぱり分からない。
ふと室長の顔が浮かんだが、それも考えづらい。今日は室長にとって、極めて憂鬱な一日になるはず。
それなのに、出勤時間の二時間も前にやってくるメリットがない。それに先立って室長がやってくる光景が思い浮かばないのだ。
ううむ、謎の気配は未だに僕に纏わりついてきている。その気配の正体は消去法で考えてはみたものの、どれも決定打にかけるな。
気配の方も僕に慣れてきたのか、ますます容易に接近してきているようだ。
こうなったら……。
右、左、右、左と、交互に叩かれている僕の肩。そのタイミングと規則性から、相手を引っ掴むことは困難ではないだろう。
僕は立ち竦んでいるかのように見せかけながら、謎の気配が右から左へ行こうとした瞬間に、左回りに思いっきり振り返った。
転びそうになりながらも、僕はその人物の肩をがっちり固定することに成功。
こうなってしまえば後はこっちのものだ。
「あんたは誰なんだ? 僕に恨みでもあるのか? そもそも――」
と尋ねかけて、僕は息を呑んだ。
「あんた、……人間なのか……?」
僕が掴んでいた影は、一見すると人間に見えただろう。だがそれは、飽くまでも外見だけを見た場合の話だ。
色素の薄い中性的な顔立ち。恐らくは女性。くしゃくしゃになった髪は、しかし意外なほどその顔つきに似合っていた。
どこか遠くを見つめているような瞳には、目が合った者を吸い込んでしまうような不思議な力が宿っている。
小柄な体躯にそっと触れるような、薄手のワンピース。そこから覗く白い二の腕が、女性の、いや、少女の姿を浮かび上がらせている。
だが、どれほどの言葉を尽くして彼女のことを説明しようとしても、それは不可能だった。
それでも僕の脳みそは、意外なほどまともに機能した。そして弾き出された疑問は、今のところはただ一つ。
――君は透明なのか?
声に出すことはできなかったけれど、この疑問は強く僕の胸に刻まれた。
どうして彼女が透明だと思ったのか? 簡単なことだ。すっかり慣れた薄暗い水族館の弱い照明のお陰で、夜目が利いたから。
と、なんのコミュニケーションも取れずにいると、彼女はそっと僕の手を掴んだ。自分の肩から引き離し、すっと下ろす。形勢逆転。
それと同時に、僕は自分がいかに平和ボケしているかを実感した。少女も怖いが、彼女が放つ感覚、恐怖感の方が恐ろしくてならない。
まるで真冬の海水浴場で、氷の混じった海水をぶちまけられたような。そんな、ヒリヒリするような物寂しい恐怖感だ。
「う、わあ! うわあっ!」
口から出てきた悲鳴は甲高く、とても自分のものだとは思えない。かといって、他にできることは何もない。後退りするのが精々といったところか。
「やめろ! 来るな! 命だけは助けてくれ!」
じっと無表情な目で僕を注視する少女。
僕はびくびくと震えてばかりだったが、少女が僕を殺傷しようとしているのでは? という疑惑は少しずつ薄らいでいった。
僕を狙って殺すつもりなら、姿を隠してから事を起こしてもよかったはずだ。それをよしとしなかったのは何故か。
僕が自分の胸に手を当て、呼吸を整えていると、少女はコテン、と首を傾げた。それから彼女は、まるで親の形見でも扱おうとするかのような慎重な手つきで、ベニクラゲの水槽にぺたり、と掌を押し当てた。
黙って観察していると、今度は心理的に、ではなく物理的に異様な事態が発生した。
少女の手先が、かぽん、という気の抜けた音と共に水中に溶け込んだのだ。
一見すると水槽が割れてしまったかのような光景。だが、割れたのは水槽ではなく少女の右腕だった。
いや、割れたというより『溶け込んだ』といった方が正しいかもしれない。
彼女はどんどん、強化ガラスを無視して水中に溶け込んでいく。
左手もだ。両手を使い、ゆっくりと水槽に自らを押し込むようにして、着実に水槽中の水と一体化していく。
「ま、待って!」
我知らず、僕は声を上げていた。あまりにも現実離れした現象を目の当たりにしたせいで、恐怖感が消滅し、知的好奇心に塗り替えられてしまったらしい。しかし。
「き、君、名前は?」
……何を訊いているんだ、僕は。名前なんて後から訊けばいいだろうに。
それより、少女の正体を確かめるのが先決ではないか。
「ちょっ、待っ……。君は、にっ、人間なのか!?」
どうにか拙い質問文を形成し、尋ねた僕。それに対し、元から声を出さないのか、少女は無反応。
かと思いきや、するりと水槽に全身が吸い込まれる直前、こちらに顔を向け、微かに笑みを浮かべてみせた。
それから僕は、今の現象を脳内リプレイしながら、しばらくベニクラゲの水槽の前で尻餅をついていた。
とは言っても、恐れているばかりが正しいとも思えない。僕はゆっくりと立ち上がり、そっと水槽に手を触れてみた。……なにも起こらない。
ということは、特異なのは少女の方だ。
この時、僕は重要なことを自覚しそびれていた。あの少女の一挙手一投足に、見事に自分が見入っていたことに。
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