第3話
※
水槽の裏側に配された通用路を通って、僕たちは警備員室に戻ってきた。
警備員室の広さはまあまあというところ。三、四人ぶんのデスクが置かれ、一台ずつパソコンが貸与されている。
このパソコンには、公開している海洋生物たち一匹一匹の状態が表示されている。
ここにもAIという文明の利器は力を誇っており、様々なデータが個体ごとに並べられている。泳いでいる速さや距離、そこから推定される体重や、病気にかかっていないかどうかなど。とても人間だけで網羅することのできない、膨大なデータ量だ。
この池ヶ崎水族館では、早朝出勤してくるスタッフたちにその情報を伝えることを欠かさない。その日の開館前に、人間も海洋生物たちもベストな状態でお客さんを迎えられるようにしている。
そんな意外とハイテクな警備員室の扉を、僕が軽く三回ノックした。
「大川隊長、失礼します」
「ぐが~……」
「隊長? 大川嶺子隊長?」
僕が再びノックするわきで、谷木が腰に手を当てながら愚痴っていた。いっつもこれかよ、と。
「まあ押さえて押さえて、耕助くん。いつものことじゃないの!」
「甘い! 絵梨ちゃん甘い! でもそこがいいッ!」
……何を言っているんだ、このバカップルは。
それはさておき、やむを得ず僕はベルトにつけたキーホルダーを取り出した。警備員室の鍵だ。さっさと使えばよかったのかもしれないけれど、どうも抵抗がある。その理由は――。
「大川隊長、入りますからね?」
と、最後の断りを入れてから、僕は鍵を回した。ゆっくりと扉を押し開いていく。
この時、室内は真っ暗だった。起動しているのはエアコン二台とサーキュレーター、それにパソコンのスクリーンセーバーくらい。
いや、まだだ。何かまだ、光を発しているものがある。
目を凝らしながら、同時に照明のスイッチを押し込むと、その物体の正体、そしてその主の姿が露わになる。
状況を整理してみよう。一番奥のデスクで、一人の若い女性がぐったり突っ伏している。
彼女の手には日本酒の一升瓶が握られており、それがパソコンのディスプレイに反射している。
僕は頭を抱えそうになるのを、なんとか耐えきった。
「あれ? どうしたんですか、凪人せんぱ……って、お酒臭い!」
「アルハラ反対! アルコールハラスメントを許すな!」
花宮が身を引き、谷木がぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
花宮のリアクションは想像するのが容易だったが、谷木はというと――。
「あ、あのさ、耕助、そんなプラカード、どこにあったんだ?」
「ああ、今日作って持ってきたんすよ。大川さん、酒癖悪いから」
いやいや、そんなものを掲げていたら、隊長よりも先に谷木の方が不審者扱いされてしまいそうだが。
「僕が大川隊長を起こしてくる。耕助と絵梨は、適当にミネラルウォーターでも調達してきてくれ。頼めるかい?」
「わ、分かりやした!」
明快に答える谷木に対し、花宮は咳き込んでしまってそれどころではなかった。
「絵梨ちゃん、大丈夫?」
谷木の言葉に、こくこくと頷く絵梨。谷木はちゃっかり花宮の手を取り、背中を擦りながら退室した。やれやれ、最近の若者は……とかいうフレーズを連想してしまうあたり、僕も若くはないということなのだろうか。
「まだ二十三なんだけどな、僕も」
呟きながら、ふらふらと警備員室に踏み入る。途中で換気扇のスイッチを入れた。
ちょうど日付が変わったところだ。今日丸一日は、空気の入れ替えをし続けざるを得ないだろうな。
「大川さん! 起きてください、大川嶺子さん!」
「む? むが……」
「巡回終わりましたよ、報告を聞いてください、大川隊長」
「あ、あれ……? 凪人くん……?」
「ええ、僕ですよ。谷木くんと花宮さんが、水を調達してきてくれます。飲み終わったら、花宮さんに車でご自宅まで送ってもらってください」
もごもごと、糸で操られる人形のように立ち上がる大川隊長。正式には、大川嶺子・警備室室長。館内の状況を監視カメラでつぶさに観察し、異常がないかどうかを確かめ、僕たちに対処させたり、業者に点検を依頼したりする。
最悪の場合、僕たちがトラブルの発生源から素早く逃げられるよう、鋭い命令を下したりする。
やはりストレスの多い職務だからなのか、酒は毎日欠かせないという。職場に酒を持ち込むのも、今回が初めてではない。
しかし……。
「日本酒にビール、カクテル、強炭酸……。流石にこれ以上はマズいですよ、室長。ちゃんと花宮さんに、帰りに送ってもらえるように頼んでおきますから、お酒は止めておいてください」
「あぁん? 誰だてめぇ!」
おおう、噛みついてきた。
「あなたの部下の、蒼樹凪人です。働き始めて三年になります。酔っているのは分かりますけど、いい加減顔と名前が一致するようにしてください」
僕は慌てて引き下がったが、身体をこちらに向けようとしている室長の足取りは覚束ない。
酒癖の悪ささえ改善できれば、この人も『目標』を達成できているだろうに。
「なぁんでウチの周りにはいい男がいないんじゃあ!? 凪人ぉ、酒……酒をありったけ買ってこい!」
「お断りします。代わりに提案なんですけど」
「て、てぇあんだぁ!? 言ってみろ、コンにゃろー!」
「早く帰宅して、ビデオレコーダーの設定を確認した方がいいのでは? 今日は日曜日ですし、あなたが推してる俳優さんの出演している戦隊ものはあと七時間で放送が始まります。万一録画し忘れるようなことになったら、どうするんです?」
僕は淡々と、室長に語りかけた。ここでこちらが焦った話し方をすると、室長は余計に荒れていくばかりだ。
「録画……? 先週は、次回予告でレイくんの出番、たくさんあった……!」
「でしょう? ここは素直に帰ってもらって、推しのレイくんとやらの雄姿を永遠に記憶に刻みつけるべきです。もちろん、ビデオレコーダーにもね」
そのうち円盤で発売されるだろう、ということは言わないでおく。
「そ、そうだ……、レイ、くん……レイくん!!」
「おわっ!?」
突如としてこちらに向かってきた室長。その千鳥足に自分の足がすくい上げられ、僕は無様に転倒した。
「いてっ……。背中打ったかな……」
「レイ、くん……」
室長はうつ伏せになって、そのまま寝入ってしまった。
「ちょっ、室長……!」
僕はちょうど、室長に覆い被されている格好になる。早く脱出しなければ、呼吸ができなくなるのも時間の問題だ。
「どいてください! まだあなたの家に着いたわけじゃ――」
なんとか室長が目を覚ますように仕組まなければ。僕は室長の肩を押しやって、這い出ようと試みた。……つもりだったのだが、この柔らかい感触は何だ? とても警備員の制服の上から触れているとは思えない、瑞々しい感覚が手先から伝わってくる。
「これ、まさか――」
僕の顔からさっと血の気が引いた、次の瞬間のこと。
「あれ? 大川室長、施錠してねえのか?」
「耕助くんなら大丈夫でしょ? ピッキング、だっけ? ほら、針金だけで扉を開けるやつ!」
「ごめんなあ、絵梨ちゃん……。それができたら、俺はとっくに警察のお世話になってるかもしれないんだわ……。取り敢えず入ってみようぜ。空いてるんだし」
「……分かった」
ぎしり、とやや重いドアが押し開けられて行く。愕然としている僕の目が、廊下からの強めの照明に晒される。そして眼球が、谷木の眼球とリンクする。
結果、時が止まった。こんな、いわば石化の魔法が通用しなかったのはただ一人。
「あれ? 耕助くん、どうかしたの?」
谷木の背後から背伸びをして、室内の状況を見極めようとする花宮。
「ねえねえ、だからどうしたのよ? 凪人先輩? 大川室長? どうし――」
「来るな!!」
谷木の怒声が、盛大な火花を散らしたように見えた。
それはそうだろう、自分のバイト先でこんな光景を目にしてしまったら。
女性の上司と男性の先輩、それも信頼性の高い人物が、何某かのよろしくない行為に手を染めようとしている。
「凪人先輩、あ、あんた……」
後退りする谷木。その横から、ひょっこり顔を出す花宮。
彼女にとって、これはどれほどの衝撃だったのか? それは、鼓膜をぶち破らんとする花宮の鋭利な悲鳴が、嫌というほどに分からせてくれた。
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