記録Ⅲ

磐座いわくら――」

 磐座とは神があまくだる座を示す。山の森の中に突如として現われた巨岩は月の光を浴び、注連縄をその身に帯びて祀られている。白い石灰岩を磨いたかにも見える奇岩は滑らかな輪郭を描いて、くびれた下方で左に寄った大穴が地面に半分ほど埋もれていた。

 ビデオカメラのレンズを通して液晶モニターに写し出されたその威容を仰ぎ、少しのあいだ固定されていた。月の色に輝くさまを長く写したためか、画面の中がハレーションを起こしてしまっている。

 我に返ったのは、ビデオカメラが俯いたからだった。暗い地面を写す。手にした撮影者の声がした。

「エイミー? どうしたの、袖を引っ張って――」

 振り向いたビデオカメラは、すぐ後ろで袖を引いたはずの何者かを映さなかった。代わりに、木々の傍らでもがく人影を捉えた。無花果いちじくの枝の下で、編み上げブーツが激しく暴れている。その足の下で点いたままの懐中電灯が横になり、鹿撃ち帽が逆さまになって落ちた。

「映美」

 悲鳴じみた声が上がった。慌てるあまり、その場にビデオカメラを取り落とした。横倒しになったカメラのレンズが、錯綜さくそうした状況を記録している。髪の短い長身の女性が、縄に吊るされて足掻あがく映美の元へ駆け寄る。懐中電灯を置いて枝から縄を外そうとしても叶わず、デニムのジャケットとジーンズで包んだその身で彼女を支えようとする。必死で振り上げられる足に顔を蹴られながら、肩で映美の体を持ち上げた。

 不意に枝の根元が折れた。急に落ちてきた映美の体を受け止め、仰向けに倒れる。息苦しさにむせる声が響き、下敷きになった女性は痛みに顔を歪めていた。枝から伸びていた縄がひとりでに解け、蛇そのものの動きで森の中へ消えていく様子を、ビデオカメラの映像は捉えている。

 しばらくして落ち着いた映美の両肩を掴み、女性は言った。

「どうしてあんなことをしたの、映美」

 問い詰めるも、しゃがみこんだ映美にもわからない様子だった。力なく首を振っている。ため息をつき、彼女の手を握って立ち上がらせた。

「とにかく、帰るよ」

 鹿撃ち帽の埃を払って、彼女の頭に被せる。地面に落ちた懐中電灯を握り、倒れたビデオカメラに近寄って持ち上げた。有無を言わせず、映美の手を引いて森の中を急いだ。その二人の姿を首吊りの輪が追う。その内側は白い闇を湛え、無数の人の生首にも見えた。

「キョーコ、ごめん」

「いいよ、今日はとにかく帰ろう」

 山の森を下ると、見覚えのある道路に出た。道路の脇にあった看板と停めてある軽自動車。不意に撮影者は足を止めた。

「キョーコ、どうしたの」

「ごめん、先に車へ戻ってて」

「何で」

「いいから」

 会話を打ち切った。一時停止したビデオカメラを下ろし、さかい鏡子きょうこは森の方を向いた。懐中電灯の明かりを向けるとその暗闇の中にうごめく影がある。明らかに人や鳥獣の動きではない。強いて言えば蛇がうねるさまに近かった。

「あなたたちを連れてはいけない」

 鏡子は毅然きぜんとした口調で言った。迫りくる影を真正面から見据える。

「もう、あなたたちは終わったのだから」

 森から姿を現わしたのは、異形としか呼べない何かだった。頚椎けいついが絡まり、複数の頭部が寄り集まっている。だらしなく下を垂れた顔面は、いずれも鬱血うっけつしており、眼球が飛び出していた。ただ、その表情はなぜだか恍惚こうこつとしている。

 おぞましい動きで迫り来る異形の前に、鏡子は決死の覚悟で立ちはだかる。これを、山から連れ出すわけにはいかない。膨れ上がった顔面の数々が、眼前で紫色の舌を振り上げた。

 その蛇体が彼女に襲いかかる直前で、何の脈絡みゃくらくもなくひしゃげた。あたかも不可視の存在に押し潰されたかに見えた。地面に肉片が飛び散り、血痕が残される。頬に返り血が飛び散った。眼前に鋭い爪をそなえた足跡が刻まれる。その大きさは、鏡子が見てきたどの獣よりも巨大だった。

 呆然と虚空を見上げる鏡子の瞳には、金色に揺らめく荘厳な毛並みが映っていた。懐中電灯が足元に落ちる。

「禁を破ったな」

 見えない獣の吐息とともに重々しい声が発せられた。

 ああ、駄目だ。これは人の身に余る。

「――禁域を侵した報いは、私が受けます。だからどうか、映美だけは」

 虚空の眼光に射抜かれ、身動きすら叶わない。かろうじて発せられたのは懇願だった。

 何もない空間から発せられる圧迫感に耐えた。震える両手で、ビデオカメラを抱き締めた。少しの沈黙が流れ、声の主は言った。

「それはもう報いを受けている」

 そう告げられると、強烈な威圧感が消えた。鏡子の体から緊張とともに力が抜け、その場に崩れ落ちた。力なくビデオカメラを構え、一時停止を解いた。

「どうしたの、キョーコ。具合、悪いの?」

 液晶モニターに、心配そうに覗きこむ映美の顔が写った。ううん、とビデオカメラが小さく横に振られる。レンズを逸らし、頬の血を拭った。

「大丈夫。少し、疲れただけだから」

「あ、何これ。大きな足跡。UMAなんじゃないの?」

 何が起きていたかも知らず、巨大な獣の足跡を見て映美がはしゃいでいた。圧倒的な存在に押し潰された異形の肉片や血痕など見えていない。

 その姿を見て、鏡子は思った。

 あなたは、何も知らなくて良い。ただ私の隣に居てくれるなら、それだけで。

 大きな獣の足跡の前でピースサインをする映美を、ビデオカメラのレンズが力なく撮影した。


 記録終了

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