記録Ⅱ

 道路から逸れた森の前には、赤錆びた立て看板があった。車のヘッドライトに照らされ、文字と電話番号が浮かび上がった。

「『あなたの心の隙間に寄り添います』……自殺抑止というより、怪しいセミナーのうたい文句みたいね」

 軽自動車が脇に停まり、ドアを閉める音が連続した。持参した懐中電灯で看板をなぞる映美の横顔にカメラが寄せる。鹿撃ち帽の下で眉根を寄せていた。

「こんなので効果があるのかしら」

「さあ。何人かは救われたんじゃない」

 ビデオカメラの撮影者が適当に相槌あいづちを打った。画面が上向く。指先を伸ばす黒い枝葉の向こうで、半分に欠けた月が浮かんでいる。微睡まどろみ、今にも瞼が下りそうだ。表示された時刻は、午前三時。

「少なくとも目印にはなるわね。この先が自殺の多発地帯ということでしょ」

「そういう言い方はどうかと思うけど、まあ間違ってはいないかな」

 カメラがそちらへ向けられる。木立のあいだには濃密な暗闇を孕んでいた。暗視機能が作動すると、木々の輪郭が浮かび上がる。懐中電灯を上に向け、映美は鹿撃ち帽の位置を直した。

「さあ、張り切って行くわよ」

 そう言って、意気揚々と足を踏み出した。

 ビデオカメラがまばたきをすると、フレームの中に鹿撃ち帽のつばを指で傾けた映美の背中が収まっていた。その前には朽ちかけた鳥居が生い茂った野原から脈絡もなく建っていた。周辺は草木で囲われ、参道や社殿といった神社の痕跡は見当たらない。

「これは映えるわね……もう森の中なんだけど」

 懐中電灯で照らされた柱は朱塗りがほとんど剥げかけて、植物のつるが巻きついている。額束がくづかには神社の名前などは見受けられない。材木が折れてしまっているのか、笠木が片側に大きく傾いてしまっている。背を屈めてくぐろうとする彼女を、撮影者は制止した。

「エイミー、そこは神さまの通り道だよ。人は通っちゃ駄目」

 小柄なケープコートの背中が立ち止まり、不承不承振り返る。

「幽霊を信じてないくせに、神道系の家の子はお固いわね」

 膨れっ面をする映美の頭上には、傾いだ笠木に留まる大きな鳥の影があった。閉じた翼が丸みを帯びた姿は梟を彷彿ほうふつとさせる。ただしこれには首がない。その断面には眼球が埋まっており、縦に裂けた瞳孔が映美を映している。

 つまらなさそうに迂回する映美を、失われた首の上で膨れ上がった巨大な目玉が追跡する。ビデオカメラの画面外から懐中電灯を握った腕が伸び、その明かりが彼女の背中を追う。木々の中に入って、カメラが振り返った。鳥居の陰影が見え、その上で爛々らんらんとした眼光がこちらに向けられていた。

 落ち葉と小枝を踏み鳴らす足音が響く。虫の声がする中、映美のうなじが大きく映った。

「この前みたいに肩透かしを食わなければ良いんだけど。古い祠を壊そうとしたら、トーコがうるさいからさ」

「あれを壊してたら罰が当たってたけど。止めるの大変だったんだから。どうしてあんなことをしようとしたの」

 肩越しに悪戯めいた横顔が向けられた。

「何となくよ。壊したら、何かが起きそうでしょう?」

 カメラのすぐそばでため息がした。小声で言う。起きてたんだよ。

「ネットミームの影響も受けるなんて」

「何の話よ」

「こっちの話」

 会話をしているあいだも、ビデオカメラの映像は傾斜した暗い森の中を上っていく。人気などないにも関わらず、木々に絡みついた暗闇に、人の顔を感知する四角い枠が至るところに現われる。白い四角に取り巻かれながら、映美は自分の肩を抱いた。

「何だか冷えるわね。もう少し着込んでくれば良かったわ」

「夜に来なければもっと良かったね」

 彼女たちの話に、何者かの音声が割りこんだ。

「寒い」

「どうして」

「お前も」

 映美に反応はなく、その複数の囁き声は聞こえていないらしい。ただ両肩をさする様子を、淡々とビデオカメラのレンズが写す。

 やがて二人は明らかな異常が見られる地点へ辿り着いた。じれた木の枝に紐状の何かが垂れ、先端で輪を描いている。懐中電灯で照らすと、頑丈にった縄だった。しかも一点だけではなく、至るところに吊るされている。枝が軋む音が静寂に響いた。

 陰影の濃い画面の中で、映美が薄気味悪そうに言った。

「あれ、まさか首を吊った人の……何で撤去されてないの?」

「さあ。映美、あんまり輪の中を覗いちゃ駄目だよ」

 彼女は怪訝そうにカメラの方を向いた。

「どうして?」

「どうしても」

 無花果いちじくの甘い匂いがする。実をつけた枝振りから何本もの首吊りの縄が垂れ、輪の中心が常にカメラの方向を向いている。さすがに不気味になったのか、映美が撮影者の袖を指でつまむ。

「少し……気味が悪くなってきたわね」

「それじゃあ、もう引き返そうか」

 幼馴染の彼女は振り返り、虚勢を張った。

「冗談。雰囲気はあるけど、肝心の心霊現象は何も起きてないじゃない」

 返事まで少し間があった。

「そうだね」

 無花果の果実が生る木々の暗がりを、懐中電灯の明かりが切り拓いていく。叢をかきわけ、やがて木立を抜けた。山の森に空白が生まれ、月明かりが降り注いでいた。満天の夜空の下で、ビデオカメラが映し出す光景に巨大な枠が出現した。

 剥き出しになった大地に鎮座していたのは、石灰岩にも似た質感の大岩だった。自然物とは思えないほど滑らかな曲線を描き、下方はくびれ、途中で地面に埋もれていた。その額には捻じれた太い注連縄が巻かれ、紙垂しでが垂れ下がっている。

磐座いわくら――」

 ビデオカメラを構えたまま呟いた。大岩の左下にある大きな穴が暗い闇をたたえ、彼女たちを凝視していた。

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