第11話

 小萩こはぎはすぐに戻ってきた。契約書を二通座卓の上に置くと、元の人形ひとかたに戻ってしまった。


 内容に目を通し

「二通とも署名だけお願いします」

 と言われるがまま口頭での契約内容と相違ないことを確認し、茉莉は署名すると馨に差し出した。彼も終えると何故か先代が手を伸ばし、契約書に署名をする。


「万が一にも当主が失敗した場合には、補償としてわたくしが代理で解決に当たらせて頂きます」


 契約が無事終了したために、茉莉は先程からずっと気になっていることを、口の端に掛けた。


「失礼ですけれど、親子でお名前が同じなのですね」


 一瞬沈黙が下りたが、先代が答えを寄越してくれる。


宗家そうけから説明がありませんでしたか? 我が家は代々、男も女も『かおる』という名跡みょうせきを嗣ぐことによって、現世に災いをもたらすモノたちを封じているのです。男は馨という字を女は薫の字を用いておりますが、当主を継承する儀式の終了と同時に、わたくしたちは俗世での名前(本名)を隠します」

「一旦隠した本名は、終生名乗ることを許されません。だから母も死ぬまで薫さんと呼ぶか、先代と呼ばねばならないのです」


 馨は続けて、もし存命の内に本名を他人に呼ばれてしまうと、歴代の当主が封じてきたモノたちが蘇ってしまうと説明した。こうして徹底的に世俗との交流を絶ち、近所付き合いも出来ないような山奥に引っ込みひっそり暮らしている。池園家のように古い付き合いのある家や、政財界の大物などは久遠家の事情を知っているために、何かあれば極秘で依頼をしてくる。


 ちなみに住み込みの家政婦をしている千佐子ちさこの家系も、代々久遠家に仕えている。千佐子の男孫は現在大学二年生。二十歳になったので、馨の父親と共に政財界の大物を相手に酒席で接待という名の人脈作りを東京でしている。馨の父は、久遠家と古い付き合いのある家から婿に入った。妻が家督を譲られた後に結婚したので、妻の本名を未だに知らない。


 久遠家の人間は当主以外の男は政財界との人脈作り、女は旧知の家との繋がりを絶たぬよう動いている。馨に兄弟姉妹がいないため、次世代の人脈作りは千佐子の家が一時的に請け負っている。彼女の息子夫婦は現在、関西や九州方面で活動している。このように久遠家と住み込みで働く百原ももはら家には特殊な事情があるために、結婚も複雑な条件が科せられている。


 この時代になっても、生まれたときから許婚いいなずけという者が存在している。当事者たちに拒否権はなく、年頃になったら結婚させられるのだ。馨の両親は奇跡的に仲睦まじいが、過去の当主夫妻の中には子だけもうけたら別居ということも珍しくなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る