第8話

 抹茶の緑を連想させる穏やかな色合い。利休色の作務衣さむえを着た青年が、離れの縁側で横になっていた。手枕で微睡まどろむ春の午後は何とも心地良く、長い時間こうしていれば風邪を引いてしまうと判っているが、心地よさの方が強くて瞼を開けられない。やがて縁側に誰かの衣擦れの音が響いてきて、青年は自堕落な時間は終わったと内心で息を吐く。


 しゅるしゅると、絹特有の滑らかな音は耳に心地よい。そっと目を開ければ、真っ白な足袋と僅かに緑がかった青――千草色の裾がすぐ傍で見える。和服の主が誰か瞬時に察した青年は、何か言われる前に素早く身を起こし居住まいを正した。今まさに小言を言ってやろうと構えていた三十代前半に見える女性は、拍子抜けしたように小さく肩をすくめると自分も青年の前に正座をした。


かおるさん、その名を継いで初めての依頼人が見えられました。さっさと着替えていらっしゃいな」


 声音に若干の苛つきが混じっているのは、依頼人と聞いて青年が心底面倒くさそうな表情をしたからだ。


「僕のような若造なんかより、母さんの方がまだまだ現役でしょう? どうぞご自身で受けたらいかがですか?」


 出来れば面倒くさいことから逃げ出したいなと、馨と呼ばれた青年は作務衣の襟を直しながら言う。


「なに寝言をのたまうのかしら? この息子は。あと母さんじゃなくて、かおるさんと呼べと言ってるでしょう?」


 にっこりと笑っているが、全身から半端ない殺気が放たれている。さり気なくたもとから二枚ほど護符ふだを取りだし、今にも式神を呼び出そうという気配を感じた。


 馨は慌てて

「も、申し訳ございませんでした!」

 土下座をしながら詫びを入れる。


 この母親は冗談抜きで、息子に式神やら真言密教の護法童子ごほうどうじらを折檻のために使役する。今までにも母さんと呼び、式神に襲われたことが多々あった。馨からすれば単なる年季が入った若作りの化け婆なのだが、うっかりそんなことを言ったら本気で命が危ない。見た目は三十代前半だが、実年齢は五十半ば。誰かの生気を吸ってこの世に存在しているのではないかと、実の息子ながら背中が寒い。


「で? 依頼人とは?」


 しぶしぶ作務衣姿で依頼人に会うのも何だと彼は思い、着替えるために立ち上がる。母は奥座敷の方角を指しながら答えた。


「名古屋からいらした、日本舞踊池園流宗家のお孫さんよ」


 両家は長い付き合いがある。馨も幼少の頃、両親に連れられわざわざ名古屋まで出掛け、日本舞踊の舞台を観たものだ。宗家は確か七十代半ばだから、孫というなら似たような年齢かと思いながら、馨は自室に入ると洋服に着替えた。


 「お待たせしました」


 座敷に入ると、住み込みの家政婦である千佐子ちさこが客人の話し相手をしているところだった。


 彼女も七十の坂を越えたばかりだが腰はスッキリと伸び、紫鼠むらさきねずの小袖の上から割烹着を着けている。遅いですよと、去り際に千佐子が目で訴えかけてきて馨は小さく肩をすくめる。依頼人と向かい合う形で座した。障子は大きく開け放たれており、桜の季節も終わった五月上旬の今、庭には躑躅が咲き乱れている。赤紫と白、そして赤色と色も豊富な躑躅たちが咲き誇っている。依頼人はきちんと正座をしており、日本舞踊家元の孫娘だけあって背筋が伸びていて茶を飲む姿勢も美しかった。

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