第6話

 三年前の五月頃、大学を卒業し地元の中堅企業に就職しつつ将来の家元となるべく舞踊の修行に励む茉莉まりは、舞踊家としての自分に自信が持てずにいた。宗家そうけの孫娘、家元の娘という立場であるが、将来自分が流派の大看板を背負って良いのか悩んでいた。宗家である祖母や家元の母の周囲には高弟こうていたちがたくさんおり、茉莉は彼らに厳しく仕込まれていた。たまに祖母や母が直々に指導してくれることもあったが、忙しい二人の指導は一年に一度あるかないか。


 名取の資格を取得してはや五年。


 将来の家元候補としての重責は凄まじく、血縁の自分でなくとも高弟の誰かに母の後継になって貰えないかと真剣に思っていた。茉莉は、このまま自分は舞踊だけに縛られていいのかと思い詰めていたのだ。


 大学時代の友人は様々な職種に就職していったが、自分は家に縛り付けられいつ退職しても差し支えないよう地元の企業に就職させられた。しかも就職先は池園流を支える有力な後援会タニマチのひとつでもあったため、茉莉が舞踊に集中できるよう配慮してくれていることも、彼女の心に暗い影を落としていた。このまま自分は生家に縛り付けられたまま一生を終えるのかと思うと、何のために生まれてきたのかと自棄になりそうになった。十七歳で名取になったものの、このような葛藤が芽生えてからは舞踊が苦痛になってきて、師範への道をなかなか踏み出せなかった。


「お嬢さん、どうしたのですか。腑抜けていますね」


 茉莉の指導に当たってくれている高弟の高瀬たかせは、そう言うと深い溜息をいた。高瀬は宗家である祖母と同世代の男性で、家元の母の右腕的存在。茉莉は幼い頃からプライベートでは「高瀬のおじいさま」と慕っているが、芸事げいごとになると「お師匠さま」と呼んでいる。踊りを離れれば好々爺こうこうやだが、芸事に関しては祖母同様に厳しい存在となる。幼い頃から茉莉を見続けてきた高瀬は、茉莉がスランプに陥っていることに気付いた。


(宗家とそっくりですな、血は争えないということか)


 宗家の佳乃よしのと若い頃から修行してきた高瀬は、茉莉も人生について悩み出したと気付いた。家元を嗣ぐというのは、並大抵のことではない。佳乃も今の茉莉と似たような時期に踊りを投げ出したいと高瀬にこぼしたことがあった。もっとも佳乃のときは女性の社会進出の道などほぼ閉ざされていた時代だったので、涙を呑んで若き日に家元を継承した。だが茉莉は多様な価値観が当たり前になった現代の女性。外の世界を見たい欲求があるのも判ると、高瀬は舞扇子を顎の下に当てながら小さく肩をすくめた。


「宗家、お嬢さんの指導係を別の人に任せてみてはどうでしょうか」

「高瀬さんも、そう思いますか」

「ええ、お嬢さんは今が正念場ですよ。このままだと一生名取のままで、家元の跡目は高弟の誰かが嗣ぐことになります。舞踊家として一本立ちさせ家元を嗣がせるならば、お嬢さんの傍に公私ともに添わせる相手が必要ではないかと存じます」


 宗家の佳乃と高瀬は若い頃に想い合っていたが、結婚は許されなかった。無理に引き裂かれたために未練も残ったが、流派の名を汚すことだけは許されなかったために不貞行為を働かぬよう、二人は厳重に見張られた。互いの親とも伴侶とも死別した現在は、埋み火のようにまだ微かに燃えている恋心は封じ、互いに支え合い今に至っている。茉莉も年齢的にそろそろ、生涯の伴侶に相応しい相手を見つけてやるべきではないかと高瀬は進言した。


「高瀬さんがそう言うなら、そうなんでしょうね。私たちとは違い、芸事も同じように高め合っていく伴侶を……」


 男女としての逢瀬はなくとも、芸事に関しては佳乃と高瀬は最高の伴侶である。互いの配偶者よりも、切っても切れない強い絆で結ばれている。孫娘には公私ともに寄り添える伴侶を見つけて欲しいというのが、祖母としての思いである。

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