第2話
昭和三十七(一九六二)年。当時十五歳だった祖母は、ダム建設のため住んでいた村を出て、愛知県名古屋市に家族で引っ越した。必要だったとはいえ住み慣れた家が、村がダムの底に沈む。多感な乙女の時期に祖母は、何を思って引っ越したのか。認知症が進んでしまった今となっては、聞くことが出来ない。それでもたまに鮮明に昔の記憶が蘇るのか、幼馴染みたちとの思い出や、のどかな村の風景を懐かしそうに語る。聞き役はもっぱら孫である青年だったが、老人福祉施設に入居した現在では、職員を相手に延々と語って閉口させているらしい。
「もう一度、あの村に帰りたい」
施設に顔を出したとき何気なく呟いた祖母の目には、何とも言えぬ哀愁と望郷の念が宿っていた。祖母っ子だった青年は、何とかしてやりたいと思ったのだ。
「話には聞いていたけれど、本当に何もないな」
見渡す限りの山と湖。確かに良い風景なのだろうが、都市部の光景に慣れ親しんでいる青年にとって、この場所は退屈以外の何物でもない。用事も済んだし帰るか。青年が踵を返した刹那、か細い女の声が聞こえた。
「もし、……さま」
最初は空耳だと思った。自分以外にこんな季節外れに、わざわざ山奥に来る人間などいないと思っていたからだ。それに妙に時代錯誤な名前だったので、完全に違うと思ったのだ。だが周囲には、老人はおろか他に誰もいない。薄気味悪く思った彼は、さっさと帰ろうと車に戻ろうとして――自分の意思とは関係なく、足が動いていることに気付いた。
「
また声が聞こえる。よく聞けばまだ若い、十代の声に聞こえる。何なんだと焦りながらも足は動き、止めることが出来ない。気付けば駐車場脇の、よく目を凝らさねば判らない細い
ふわりと、甘やかな香りが漂ってきた。梅とも桃とも違う、ましてや桜などではない香りだ。足元に気を取られていた彼が、顔を上げるとそこには。
「白藤? え、まだ三月だぞ?」
この辺りでは桜の季節も本格的に始まっていないのに、開花するには早すぎる白藤が匂やかに花房を垂らしていた。樹齢は何十年、いや何百年だろうか。蔓に巻き付かれたであろう大木は、すっかり白藤と同化していた。大きく広がった枝は、藤棚の役目を果たしている。彼の足はいつの間にか止まっており、この白藤に引き寄せられたのだと、ようやく理解できた。
「
今までどこか遠くに聞こえていた声が、今度はハッキリと聞こえた。風もないのに真っ白な花房が一斉に揺れ、彼の周囲を取り囲んでいく。いつの間にか甘い香りと真っ白な花房以外、彼の目には映っていなかった。藤の幹以外は雪と花房の白一色に染め上げられ、甘い香りが彼の心を現実世界から引き離していく。
不意に白一面の視界に、色が差した。
名古屋市にいる婚約者とは似ても似つかぬ、どちらかと言えば地味な顔立ちの少女なのに、先刻から青年の記憶に引っ掛かるものがあった。彼女は自分を
「お帰りなさいませ、太郎兵衛さま。
甘やかな白藤の匂いが一層強くなった。青年は頭の中に霞がかかったような状態になり、意識が混濁していく。自分なのに、自分ではない誰かの意識に支配されていく感覚を覚えた刹那、身体は琴という名の少女へと引き寄せられていく。彼自身は気付かなかったが、その頬から顎にかけて涙が伝っている。躊躇いがちに伸ばした手は、やがて彼女の頬に触れた。滑らかな肌はこの寒空の下に居た所為で冷たいが、触れられたことで血の気が上り薄紅色に染まっていく。
「良かった、ずっとお帰りになるのを待っておりました。琴はもう二度と、太郎兵衛さまを離しません」
琴が青年にしがみつくと、白藤の花房が二人をあっという間に包み込んでしまった。幹に突然開いた大きな洞の中へと、閉じ込めてしまう。どういう原理かすぐに洞は閉じた。青年は己の意思を剥奪されたかのように、琴の言うがままに横になった。彼女は魅惑的な笑みを湛えながら青年の頭を己の膝の上に乗せ、愛おしげに髪を撫でていく。
「お琴、お琴なのか?」
焦点の定まらぬ目をした青年は、お琴の頭にある手拭いを取ると、その艶やかな黒髪をそっと撫でた。記憶の底から蘇って来る何かが心をかき乱す。
確かにこの琴と名乗る少女と自分は、遠い昔に
「もう離さない。やっと帰ってきた太郎兵衛さまは、ずっと琴のもの。もう、どこへも行かせたりしない」
少女の
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