マグカップ

高本 顕杜

マグカップ

 マグカップが割れてしまった。

 

 リビングの床には、その無残な姿がさらされている。

 

 それは、病気で亡くなった妻の倫子が、いつかのプレゼントでくれた物だった。

 

 龍造は曲がった腰をさらに曲げ、破片へと手を伸ばした。

 しかし、その手は破片に触れることなく止まった。

 

 ――いや、もういいか……捨てよう。

 

 龍造と倫子は、お見合いで結婚した。倫子は女性にしては大柄で、傲慢、口も悪かった。思い出されるのは、いつもうるさく文句を言われた記憶だった。マグカップだって惰性で使っていただけだった。

 

 と、そこへ、孫を見送った娘の巴がリビングに来た。


「え! 割れてるじゃない。いいよお父さん、危ないし私やるから」


 巴はいそいそと破片を集め始める。

 そんな巴に、「捨てておいてくれ」と告げ、踵を返す。


「え、でもこれって……」振り返る巴。


「もう、いらん」と龍造は背中で言い放ちリビングを後にした。




 ――その日、龍造は何故か、なかなか寝付く事ができなかった。



 早朝、起きてきた龍造がリビングで目にしたのは、元の形に戻ったマグカップだった。

 龍造に気が付いた巴が朝ごはんの支度をしながら、声を飛ばしてくる。


「お父さんおはよ、なんか寂しいし、直しておいた。お母さんからのプレゼントなんでしょ、それ。まあ……応急処置だから、漏れてくるかもだけどね」


 マグカップは綺麗に貼り合わせてあった。

 龍造は思わず手に取り、マグカップの表面をなでる。


「器用なもんだ……」


「まあね、お母さんの娘ですから」


 龍造は巴の言葉にはたと思い出す――。

 

 倫子は大柄の割には手先が器用で、龍造が割った茶碗なんかを幾度も同じように直してくれた。それに、確かに倫子は傲慢で、口うるさかったが、感情豊かで表情がころころ変わる人だった。それは、口数の少ない龍造にとって楽しい刺激でもあった。

 

 そこへ、巴が湯呑を龍造の前に置く。


「お茶飲むでしょ、今日はこれで飲んでね」


 しかし、龍造は貼り直されたマグカップを差し出す。


「入れ直してくれ、これに」


「え、漏れたらどうすんのよ」と、言った巴だったが、龍造の顔を見て、仕方ないわねと入れ直してくれた。



 龍造は、今日もいつものマグカップでお茶をすする。

 在りし日に思いをはせ、その口元は柔らかく緩んでいたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マグカップ 高本 顕杜 @KanKento

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ