甦る野良犬 尚輝

 なんてツイてないんだ。

 こんなのって、あるかよ。


 坂本尚輝は、とんでもない事態を前に、ただただ呆然としていた。こんなことが、あっていいのだろうか。自分の人生には、いつも不幸な偶然が重なる。どうやら、この不快な流れからは死なない限り逃れられないらしい。




 吉田が若い愛人宅に入ったのを確認すると、尚輝はその現場に乗り込むための準備を始めた。カメラやICレコーダーなどの存在を確認し、愛人の部屋に近づく。

 ドアの前に立ち、ブザーを押した。だが、ここで予想外のことが起きる。

 凄まじい勢いで、ドアが開いたのだ。中なら、バスローブをまとった若い女が姿を現した。完全に混乱した表情である。

 尚輝を見るや否や、女は叫んだ。


「早くして! 動かないし息してないの! 早く病院に連れて行って!」


 部屋の中で、吉田繁は倒れていた。

 よりによって、愛人宅で急に心臓麻痺を起こしたのだ。あるいは、腹上死というヤツなのかもしれないが……いずれにしても、吉田は息をしていない。彼だけはは、死んでしまったのだ。

 尚輝の金づるになったかもしれない男が。

 やがて救急車が到着した。目の前で運ばれていく。息もしていないし、心臓も止まっていた。確実に死んでいる。これから病院で、蘇生のための処置を施すのだろうが……年齢を考えれば、まず無理だろう。


 クソ……。

 俺の計画がパーじゃねえか。


 尚輝にとって、吉田の生死などどうでもいい。それよりも、入るはずだった金が入らないことの方が切実な問題だった。

 このままだと、依頼人である吉田の妻・秀子から何を言われるか。浮気調査をしていた自分が、愛人宅にて亭主の死体を発見していた……これは、あらぬ疑いをかけられても仕方ない状況である。依頼人である自分に内緒で吉田繁と接触し、双方から金を巻き上げようとした……と秀子が判断したとしても仕方ない。

 もちろん、それはあらぬ疑いではなく、実際に尚輝がやる予定だったことなのだ。

 尚輝は頭をフル回転させ、今後の対策について考えた。まず、秀子の追及に関しては……シラを切り、ごまかし、丸め込む。それで何とかなるだろう。


「吉田を尾行していたら、若い女の部屋に入っていくのを見た。そこで、どういうことなのか調べようとしたら、こんなことになってしまった」


 いかにも、取って付けたような言い訳だ。しかし、今の自分にはそれくらいしか出来ない。秀子からの追及は、それでしのぎきる。

 問題なのは、予定が狂ったことだ。入って来るはずだった金が入らない、これは本当に腹立たしい。

 思えば、自分の人生はこうした不運の連続だった。高校受験の時は、第一志望の試験を受けるため電車に乗っていたらチンピラに絡まれ、挙げ句の果てには警察沙汰になる。結局、尚輝は滑り止めの底辺高校に行く羽目になったのだ。

 さらに、大学受験の時は……父親がリストラに遭い、無職となってしまった。結果として、進学を諦める羽目になった。

 そんな生活の中、ようやく見つけたプロボクサーという道と、世界チャンピオンという夢。初めは、ほんの気まぐれから高校時代に始めたボクシングだった。しかし、いつの間にかのめり込み、プロライセンスを取得した。もともと小さな頃からやんちゃな性格で、喧嘩の場数も多く踏んでいる。しかも運動神経もいい。尚輝は順調に勝ち星を重ね、あっという間に日本ランキング四位まで上り詰めた。ボクシング雑誌にも、名前と写真が載った。深夜とはいえ、試合がテレビで放送されたこともある。

 いずれは、世界チャンピオンになる。その目標に、己の全てを懸けていた。人生そのものを懸けていた。尚輝は、生まれて初めて夢を見たのだ。その夢に向かい、ひた走っていた。

 だが、たった一発のパンチが全てを台無しにした。




 やりきれない表情で、事務所のあるマンションに帰って来た。一階にある事務所に入ろうとした時──


「おっさん……さっさと行けやあ!」


 突然、背後から聞こえてきた罵声。尚輝はゆっくりと振り返る。何者の言葉かは知らないが……今は気が立っているのだ。もし自分に向けられた言葉なら、ぶちのめしてやる。


「おいおっさん! さっさと歩けや!」


 またしても、罵声が聞こえてきた。だが、尚輝に向けられたものではなかった。若くガラの悪いジャージ姿の男が、仲間らしき男を怒鳴りつけていたのだ。二人ともコンビニ帰りらしく、食料品などの入ったビニール袋をぶら下げている。

 二人はエレベーターに乗り、扉を閉めようとボタンを押す。

 その時、尚輝は動いていた。


「すみません! 私も上がります!」


 叫びながら、エレベーターに飛び込む。二人と目を合わせぬようにしながら、すました顔でエレベーターに乗った。

「あんた、何階だよ?」


 ジャージ姿の若者が尋ねてきた。同時に、その手が階数の書かれたボタンに伸びる。尚輝はそちらに視線を移した。四階のボタンが既に押されている。


「四階です」


「あ、そう」


 四階に到着した。尚輝は降りると同時に、スマホを取り出した。スマホを覗くふりをしながら、二人の様子を盗み見る。ジャージ姿の若者は、もう片方の男を小突きながら部屋に入って行く。

 あれは、四〇四号室だ。


 尚輝は自分の幸運に感謝した。依頼を受けていた人捜しが、こんなにもあっさり見つかってしまうとは。

 あのジャージ姿の若者は、間違いなく佐藤浩司だ。昨日、事務所を訪れた鈴木良子が探していた男である。





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