裁いたのは俺だ 綾人
俺は、何を考えているのだろう?
小林綾人は、今日も工場で働いていた。いつも通りに出勤し、いつも通りに作業をしている。
人を、ふたりも殺してしまったというのに。
綾人は今の今まで、自分を普通の人間だと思っていた。テレビや新聞などで、殺人事件は毎日のように報道されている。だが、そういった事件は、自分とは別世界の出来事のように捉えていた。
また、人を殺して逮捕されるような者は、自分とは根本的に違う人種だとも思っていた。そいつらがどんな刑罰を受けようとも、自分の知ったことではない。人を殺した奴は悪い奴なのだから、死刑にすればいい。
だが、ここ半年ほどの間に……予期せぬ出来事が立て続けに起きた。結果、自分はふたりの人間を殺してしまった。もう、確実に普通の人間ではない。
しかも、昨日は私立探偵が現れたのだ。探偵といえば、事件の調査を行う者のはず。
(中村さんと君のお母さんは、同時に失踪した。これは何か関係がある。俺はそう思ってるんだ)
私立探偵の夏目正義と名乗った男は、いかにも意味ありげな言葉を自分に投げかけてきた。まるで、全てを見透かしているかのようだった。
そして、また来るとも言っていた。あいつは、全てを知っているのだろうか?
もし、全てを知っているのだとしたら……なぜ、警察に行かないのだろう?
夏目は、おそらく自分を疑っている。では、あいつはどこまで知っているのだろうか。今のところ、死体はまだ見つけていないはずだ。殺人事件の証拠も、まだ見つけてはいないはず。となると、奴に出来ることなど何もない。
そう、心配することなどないのだ。今のところ、中村雄介はただの行方不明なのである。たまたま、中村と母が同じ会社に居ただけだ。そして中村が消え、母も消えた。ただ、それだけだ。
ふと、中村の言葉が甦った。
(お前のお袋の方から、誘ってきたんだよ! 俺はな、ボランティアだと思って仕方なくヤッてやったんだ! むしろ感謝してもらいてえなあ!)
そう喚きながら、中村は自分の襟首を掴んできたのだ。
綾人は、それまで喧嘩などしたことがない。血を見ることを好まず、人との争いは極力避けてきた。ボクシングのような格闘技は、見ることさえ嫌いだ。殴る者がいれば、確実に殴られる者が存在している。綾人は、殴る側にも殴られる側にも身を置きたくなかった。
しかし中村に襟首を掴まれ、さらに母を侮辱された時……生まれて初めて、他人に暴力を振るった。襟首を掴まれた体勢から、本能の命ずるまま、自らの額を中村の顔面に叩きつけたのだ。鼻血を吹き出しながらよろめき、呆然とする中村。
だが、綾人は止まらなかった。よろめいた中村を。狂ったように殴り続けた。さらに、倒れたところを蹴りまくった。叫び声やうめき声が聞こえた気がしたが、全て無視した。暴力への衝動に身も心も委ね、中村の身体に手足を叩きつけた。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。気がついて見ると、中村は血だまりの中に倒れていた。顔は完全に原形をとどめておらず、体はピクリとも動かなくなっていた。
綾人自身の拳も、血まみれだ。いや、拳だけではない。彼の全身は、返り血で真っ赤に染まっていた。
「綾人……あんた……」
弱々しい声。綾人がそちらを見ると、母が床にへたり込み、怯えきった表情で震えていた。
自分の人生は結局、おかしな方向に転がっていくように運命付けられていたのだろうか?
そもそも、自分は何を望んでいた? 夢や大それた目標などというものは、自分の人生には存在していなかった。ただ普通に生きたかっただけなのに、それすら叶えられなかった。
地味にひっそりと、しかし平穏に生きていきたかっただけなのに──
「小林くん、悪いんだけどさ……今日も残業お願い出来るかな? いや、アルバイトがひとり休んじゃって、もう大変なんだよ」
五時になり、帰る支度をしていた綾人の前に現れたのは、班長の卯月だった。相も変わらず、すまなそうな表情を顔に張り付けて綾人に頼んできた。心からのものでないのは、よくわかっている。
いつもなら、綾人の方もあやふやな笑顔を顔に張り付け、残業を引き受けていたはずだった。
しかし、今日は違っていた。
「嫌です。それじゃあ、お先に」
そう言い放つと、綾人はすたすたと歩いていく。卯月は当惑したような表情で、去って行く綾人の後ろ姿を見ていた。
自転車を停めておいた場所に立ち、周囲を見回した。今日は、あの夏目とかいう探偵は来ていないらしい。となると、やはり自分の考え過ぎだろうか。奴はどこまで知っているのだろうか?
そんなことを考えながら、綾人は自転車に乗る。夏目が何を考え、どうするつもりなのか……今の自分にはわからないのだ。探偵がどのような調査をするかなど、知るはずもない。
ならば、今の自分に出来ることをする。証拠はないはずだ。それに死体が出なければ、二人はただの行方不明者のまま。あの探偵が何を言おうが、自分さえしらを切り通せば、問題はないはずだ。
そこまで考えた時、綾人はあることに気づく。
俺は、生き続けるつもりなのか?
ついこの前までは、死刑になりたいなどと考えていたのに。
いざとなったら、自殺しようと考えていたのに。
俺はまだ、生きていたいのか?
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