五、会いたいならやってみれば? 知らんけど。

 僕は物語から吐き出されたようだった。

 目が覚めたときには窓の外は夕焼けがおさまったばかりのもの悲しい色になっていて、それくらい寝ていたんだなと何となしに思った。

 そうしてから、誰かと手をつないでいることに気がついた。

 ベッドに横たわる僕の左手に、僕以外の人間の温もりがある。物語の世界からダガーを持って戻ったときのように、あちらの世界の誰かを連れて来たのかと思った。

 物語の中で、僕は誰と手を――

 目覚める直前の風景を思い出して僕は飛び起きた。

 僕はと会った。たしかあの子は僕の手を掴んでいたはずだ。

 連れてきたのが彼女だったらと思い僕はぎゅっと左手に力を入れた。離してしまったら溶けてなくなってしまうと咄嗟に考えたからだ。

 だけど僕の予想は違っていた。

 僕が強く握った手は姫のものだった。ベッドにもたれるようにして眠っていた姫の手が、僕の左手に包まれている。

 僕はまた物語の景色を思い浮かべた。そういえば、どうしてか姫がそこにいた。そして今も目の前にいる。

「どうして姫がにいるんだ」

 僕は思わず口にした。

 左手の力加減と僕の声とに揺り起こされた姫は、寝ぼけ眼で僕の方を見た。

 瞼をこすろうとして自分の右手が囚われの身であることを知る。

 最初は、何が起きているかわからないといった顔。

 はっきり目が覚めてくると、つながれた手をまじまじと見つめて、そしてぶんと豪快に振り払った。ドアのそばまで後退り僕を睨みつける。ばたばたと動いたせいなのか、頬がほんのり赤くなっていた。

「……何が起きてんの?」

 姫は目を瞬かせた。

「それは僕が聞きたい――じゃないな。驚き具合で言ったら姫の方が切実だろうし。僕が説明するのが先か」

 姫は何も言えなくなっている。ただ僕の顔と自分の右手とを何度も見返していた。

 何度目かで「あ」と口を開けた。

「さっきの、あれ、何?」

 ぶつ切りの質問。

「姫もにいたんだよな?」

「キヨ太はさっきのが何だったのかわかってるの?」

「あれは、」

 何て言うのがいちばんわかりやすいか。考えて僕は「あれは新刊用に書いた物語の世界だ」と言った。

 そんなこと言われたって普通ならば受け入れられないはずだ。姫もやはり「夢を見てたってこと?」と常識的な反応を見せた。

 しかし、

「二人そろって同じ夢を? それはそれで摩訶不思議な現象だと思うけど」と返すと、マンガ家らしい思考回路で状況を理解しようと試みたようで、

「本当に、あれは物語の世界なの?」

 と、驚きながらも目を輝かせた。

 それで僕は全部打ち明ける覚悟ができた。

 僕は昔から自分が書いた物語に入り込むことができること。それは夢とは違って実際に体験できるもので、傷を負うことだってあるということ。その世界のが昔と今とでは違っていて僕はもやもやしているということ。それが寝不足の要因になっていること。

 何となく、少女のことには触れなかった。

 物語の世界のものを持ち帰ることもあるというくだりで、僕は自分の左手を見た。

「もしかすると、逆もあるってことなのかな。たとえば僕がこっちで手にしたものがあっちの世界に出現するみたいな」

 そうだとして、ところで僕はいったいどうして姫の手を握っていたのか。そして姫はどうして僕の部屋にいたのか。

 その疑問への回答はこういうことだった。

 早退した僕のことが心配になって、放課後に寄ってくれたのだという。寄ったついで未読のマンガを借りていこうとして物色していたらつい読み込んでしまったと。

「それがどうして僕の部屋で眠るという事態につながるんだ」

「だって、〆切りの後だから」

「限界が来たっていうことか」

「そういうこと」

「手は?」

「私から握ったわけじゃないからね! 私だって、起きたらあんなことになってて、驚いたんだから!」

 姫は僕の寝相のせいにした。

 腑に落ちなかったが受け入れないと先に進まなそうだったので、僕はごめんと謝った。謝ったけど、やっぱり腑に落ちなかった。

「たしかに、キヨ太はキヨ太だったけど、なんとなく主人公に見えたりもしたし、物語の世界っていうのは本当なんだね」

「僕が主人公に見えた?」

「うーん、っていうか、主人公の姿をしてるのに中にキヨ太が透けて見えるっていうか」

 そういう風に見えるものなのかと感心した。なにせ僕以外の人間と物語の中で遭遇するのは初めてなのだ。

 しかし僕から姫は、姫にしか見えなかった。

 姫もこの物語の作者の一人なのだから、主人公なり他のキャラクターなり、誰かしら物語の登場人物になっていてもおかしくなさそうなものだが。これは原作者特権とかなのだろうか。

「でも、あんなシーン描いた覚えないんだけどなあ」

 僕が優越感に浸っているだなんて微塵も思わず、姫は自分の記憶をたどって言った。

「そりゃそうだよ。あれは完全にボツになったシーンだから」

 ほら冒頭の、と言いながら僕はちょっと心配した。物語に入り込むにしてもなぜボツになったシーンなのかと訝しがられはしないだろうか。未練たらしくそのシーンにこだわっているとか思われていたら最悪だ。でもここで「ランダムだから。僕はシーンを選べないから」なんて言ったら言い訳のように聞こえそうだし。

 そんなことを考えていたが姫はまったく気にしていなかった。

「ああ、なるほど。あのシーンか。……ん? でもあのシーンにあんなキャラいたっけ」

 姫は僕の小説を思い出し首を傾げた。

「ほら、あの黒い髪の女の子」

 姫の言葉に思わず息を飲み込んだ。

 それはそうか、と遅れて思った。

 あの場に居合わせたのなら当然の反応だ。

「あれは……」

 口ごもる僕。姫は僕の顔をじっと見ている。答えを探っているのか、それとも待っているのか。

「私が見た小説には書かれてなかったよね?」

 じりじりと距離を詰める。

 これはもう、あれだ。言うしかないやつだ。

「あれは――」




 そうとう言葉を選んだ。真っ暗闇の中を手探りで進むような、そんな感覚だった。

 コツンと足先に何かが当たれば、僕はすぐに引き返すつもりだった。だけど本当の暗闇では引き返す道すらわからなくなってしまう。

 つまり何が言いたいかというと、僕はあの子のことをどんな風に話していいかまったくわからなかった。

 昔よく物語の世界に現れていたことと、いつからか現れなくなったことくらいしか伝えられなかった。

「へえ、そうなんだ」

 姫の反応は思ったものと違った。

 物語の世界のことだからもっと興味津々といった顔で聞くのかと思ったら、何とも複雑な表情を見せるのだ。普通のチョコレートだと思って頬張ったら中から馴染みのない味のフルーツのジャム様のものがとろりと染み出してきたときのような、そんな顔をしていた。

「つまり、会いたかったってこと?」

 突然の直球に僕はむせた。水を口に含んでいるときでなくて本当によかった。

「そういえば、キヨ太の描くヒロインってあんな感じの子が多いよね」

 と姫はさらに詰めてきた。

「黒髪ロング? 今回もそうだったような」

 私とは大違いなと言いながらショートボブの毛先を指に巻き付ける。短いし猫っ毛だしですぐにくるんと逃げてしまう、ミルクティー色の髪。

 ……責められている気がするのは気のせいだろうか。

「それで、やっと再会できたのにちゃんと話すこともできずにこっちに戻ってきちゃったわけだ。……なんか、私が邪魔したみたいじゃない」

 ぷうっと頬を膨らます。そうしたいのはこっちの方だ。

「姫が邪魔したっていうのは違うけど、でも他の部分はだいたい正解だよ。あの子が姿を見せないことはずっと気になっていたし、できるならまた僕の物語についてたくさん話がしたいと思ってた。僕のつくった物語をあの子に見てほしかった……のか?」

 言っている途中で自分自身の気持ちの解釈に自信がなくなって、僕は腕組みをした。「知らんがな」と姫は呆れる。

「ちなみに、私と一緒に描くようになってからも会ったことある?」

「あるよ。中学に入ってからもあった。だけどいつまでだったかは、はっきり覚えてないよ。二年のときにはまったく会えてなかった気がする」

「ふうん」

 おざなりな返し。しかし「へえ、そうなんだ」と言ったときよりは興味がありそうな雰囲気だ。

 姫は少し考えてから、僕の部屋の本棚を探った。市販のマンガ本の奥に隠してある自作の同人誌――僕らの作品を引っ張り出す。

「ノートは?」

 姫は本棚を全部ひっくり返す勢いで何かを探している。

「何だよ、ノートって」

「これより前のやつ」

 姫は同人誌を指差した。

 これより前というと、同人活動をする前の作品ということか?

「姫の家じゃなかったか?」

「何冊かこっちにあるはず」

「だとしてもノートなら本棚じゃないだろ」

 そう言って僕は机の周辺を探した。普段ほとんど使わない引き出しにそれはしまわれていた。

 小学生のときに使っていた、古いノート。

 表紙に飾り文字でタイトルが書かれていた。当時描いていた僕らのマンガのタイトルだ。普通のノートに鉛筆で描いたマンガをクラスのみんなが回し読みしていたから表紙はヨレヨレだし、中の鉛筆の線も擦れてしまっていた。

 今さらあらためて読むことはほとんどない。懐かしさと照れくささを感じながらページをめくっていると、姫がとなりに来て同じようにのぞき込んだ。

「これがどうしたんだよ」

「最近のと見比べてみるとよくわかるよ。全然違うから」

「それはそうだろ。これ、小学生のときのだよ。ここから成長してなかったら悲劇だよ」

「そうじゃないってば」

 姫は首を横に振った。

「そういうんじゃなくて、キヨ太の物語はこの頃と今とじゃ全然違うんだよ。その変化のせいなんじゃないかな、その子が現れなくなったのって」

 思いがけないことを言う。

「何だよ、変化って」

 すがるような気持ちで問いかけると、姫は不機嫌そうな顔を見せた。

「だーかーらー、読めばわかるって言ってるでしょ」

 姫の言い方は理不尽なほどにぶっきらぼうだった。

 あの子が現れていたときと今とでは、いったい何が違うと言うんだろう。それで言えば今日は、いつもと何かが違ったんだろうか。ボツになったさっきのシーンは、昔の僕に近かったということなのか?

 姫に助けを求めてもそれ以上は教えてくれなかった。

「そんなに会いたいんならさ、試しに昔のキヨ太になりきって書いてみればいいんだよ。……本当にそれで会えるかは知らんけど」

 とだけ言って、姫はノートに視線を落とした。


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