第12話 野生動物
自分の口で言ってみて、数秒して、雁馬の頭には鮫島? あれ? 飯塚知也? と疑問が浮かび上がってくる。考えていることと、口から出た言葉との違いに、耳で気づいたのだ。
「おい獅熊。鮫島ちゃんは野球が好きなのか?」
分からないことは、獅熊に聞くに限る。すると獅熊はちょうど、おかしい、ないな、と言いながら、こちらに戻って来た。
「獅熊、鮫島ちゃんは野球が好きなのか?」
「何の話をしているんだ、さっきから」
「見ろ。鮫島ちゃんの野球コレクション」
獅熊は、画面で野球関連の映画やドラマが並んでいるのを見て、「ああそうみたいだな。それがどうした」と少し投げやりな口調で言う。
「アカウントは鮫島ちゃんのじゃない。違う人の名前だった」
「適当に登録してあるんだろ。こんなところで本名使っても仕方ない」
獅熊がそう言うと、雁馬は「ああ、そっか」と言って、すぐにどうでもよくなって、適当な映画で決定ボタンを押した。すると画面が進み、【再生】のところでまた決定ボタンを押すと、本編が流れる仕組みだ。
「おい待て」
獅熊がパッと、雁馬の手を制する。なぜか、目の色が急変していた。
「なんだ、いいだろ。仕事終わりに映画見て行こうぜ、せっかくだ」
「違う、戻れ」
雁馬は不服な表情だったが、気まぐれで言われた通り、画面を戻った。トップページになる。
「飯塚知也というのは、何だ」
獅熊が画面の上部を指さして言った。「誰だ」ではなく「何だ」だった。雁馬は、ああ飯塚知也は、と続けて、「鮫島ちゃんが適当に登録した名前だろ」と当たり前のように言う。
獅熊は額に手をあてて、脳を冷ますように、すっと目を閉じる。思考が高速回転し、発生する熱を手に逃がすようだ。ゆっくりと、ぴったりと、パズルが合わされていく。線が浮かび上がってくる。
「飯塚知也は俺の上司だ」
とりあえず、それだけ言っておいた。言われた雁馬は、んぁ、と多分聞いていない。
何かの罠だろう。
獅熊は考えた。罠とは、必ずどこかに不自然なところがある。不自然なところが見当たらない罠は、それほど完璧に仕掛けられているということだ。自然の中に、うまく溶け込んでいる。
しかし、どんなに完璧に仕掛けられた罠でも、見つけられてしまうことはある。それは人間には理解しがたい、野生動物のような人知を超えた能力と言っていい。獅熊と雁馬、二人がそう言われている所以の一つだ。
獅熊は、ずっと罠の気配を感じていた。鮫島の防犯意識の低さ、拳銃の持ち方、この仕事の簡単さ。そしてさっき鮫島の死体を担いだとき。
鮫島の体重は八十二キログラムと伝えられていたが、担いだ時の重さは明らかに七十五キログラムよりも少ないほどだった。データは一週間ほど前のものだから多少の変化はあれど、五十二歳の中年の男が一週間で七キログラムも変化することはあまりないだろう。この死体は鮫島ではなく、元々用意されていた、別人である可能性がある。
また、アンテナケーブルが繋がれていないのを見て、不自然さはまた高まった。それがある一定を越えて、急に解像度が高まり、何かが見える気がしたのだ。この部屋に生活感があまりないのも、賞味期限切れのヤクルトを置いているというのも、繋がる気配がした。
それから獅熊は、箪笥や押し入れを開けて鮫島を証明できるものを探したわけだが、これがどこにも何もなかった。どこにも何もない、というのもまたおかしい。スマートフォンすらなかった。
決定的なのは、雁馬が見つけたNetFlixのアカウント名だった。これが他の適当な名前であったなら何の手掛かりにもならないものだ。しかしよく知っている人物の名前となると、これが意外な決定打になった。
獅熊の上司である飯塚だ。飯塚は少なくとも、裏社会と繋がっている。でなければこの場面で登場したりはしない。よく考えれば、日常でも獅熊との距離が近いわけだ。そしてさっき飲んでいるときに披露してきた特技は、あれは常人には絶対にできない類のことである。もしかしたら業者の可能性もある。
「懐かしいなこの映画。主題歌がいいんだよなあ」
雁馬は思考中の獅熊の目を盗んで、勝手に本編を再生している。青く輝く背景に馴染みある三角形のマークが現れた。獅熊はそれに気づくと、問答無用で雁馬からリモコンを取り上げ、電源の赤いボタンを押した。画面がブラックアウトする。
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