第7話 仕事前
海鮮居酒屋を出て、飯塚の行きつけだというバーに寄った。そこで一時間ほど過ごすと終電も近くなり、礼を言って別れた。飯塚の家は、ここから歩いて帰れる場所なのだという。獅熊は電車で帰ります、と言っておいた。実際は、これから物騒な仕事に行くのだ。
念のため駅へ向かって歩いていると、ちょうど、獅熊のスマートフォンに電話がかかってきた。画面表示には、夜霧のように田中という白文字が浮かんでいる。
「もしもし」スマートフォンを耳に当てる。
「おっ、獅熊。俺だ俺、分かるだろ」
「俺で分かるか」雁馬以外、ありえない。
「声で分かるだろ。いまバイト終わったからよ、どこ集合だ」
「聞きたいことがあるがな。駅前の公園だ」
「分かった」
なぜお前があそこでバイトをしているのかという話は、電話越しに聞くことでもない。二人の電話は、用件だけだからだ。そしてたぶんもう、あとで会ったときにわざわざ聞いてみることもない。二人の会話は、まともに成り立たないからだ。
終電には乗らずに、獅熊は公園に入る。公園には、若者や中年など、家に帰らない人たちが何人か座っていた。
公衆トイレで着替えた獅熊は、ベンチに座った。腕時計を見ると、時刻は零時を過ぎている。きっと人目には、ランニング途中の大男と見えていることだろう。獅熊はナイロン生地の、黒いウィンドブレーカーを上下に着ている。
獅熊は、これから遂行する仕事を考えた。ターゲットはこの街に潜む暴力団の幹部だ。鮫島という五十二歳の男で、任侠深く、頭が良く、腕っぷしもかなり強い。迷惑な連中には容赦せず、か弱い市民には優しいのだという。任侠としては素晴らしいが、端的に言えばそれじゃあ食っていけないということだ。他の幹部たちからは嫌われている。
「鮫島の任侠は、金があれば成り立つことだ。俺たちには金がない。金のない任侠は自己満足でしかない、だろ?」
「でも鮫島とウチのオヤジは、その自己満足で死ねるなら本望だって考えだ。分かるけどよ、それじゃあ組織が続かない。鮫島を消して、オヤジを説得して、麻薬売買を始める。売春も闇バイトもこれからは募るんだ」
「まあ仕方ねえよな、俺たちも変わってかなきゃならねえんだ。任侠なんて、古くせえよ。鮫島は、時代遅れのヤクザに夢を見ているだけだ」
そういうことらしい。苦笑いの仲介人が言っていた。スイートルームで、幹部たちがわあわあと、文句のような言い訳のようなことを喋っていったのだという。鮫島を殺して埋めればいいだけの獅熊には、どうでもいい話だ。
どこに住んでいるのかは、仲介人に教えられている。重厚な壁に囲まれ、至るところに監視カメラが付いた屋敷、というわけでもなく、ただ普通のオートロック付きマンションだ。九階建ての三階の部屋に一人で暮らしている。この前、休日にここを張っていたとき、事前に渡されている写真と一致する男が、その部屋に入るのを確認している。それが鮫島だ。肌は日に焼け、目つきは厳つく、いかにもヤクザのそれだった。
特に難しい仕事でもない。
「おっ」
オレンジ色の街灯が照らす公園内で、大きな声がした。獅熊はパッとそちらを向くと、見知った人間と目が合う。
雁馬だ。
瞬間、獅熊は、いけない人物とうっかり目が合ってしまった感覚に襲われた。
「そこにいるのは獅熊じゃねえか!」
手を上げ、走って近づいてくる雁馬に、獅熊はここから逃げたい気持ちになる。辺りを見回すと、何人かがこちらを見るのが分かった。
「なんだ、俺がやって来たってのに嬉しくねえのか!」
白色のウィンドブレーカーの雁馬は、しょっ、と軽く跳んで、獅熊の隣に屈むように座った。身長は獅熊の目の高さぐらいだが、平均よりは少し高い。肉体は引き締まり、二重の眼光は鋭く、見るからに危ない気配がする。よくそれで身がバレないものだ。
「あんまり、大声を出すなよ」
獅熊がそう言うと、雁馬は「は? なんでだ?」とすぐさま疑問を口にした。きっとコイツの脳と口は一直線で繋がっているのだ。
「目立つ」
獅熊が言うと、雁馬は「いいだろ目立って。俺は将来ハイパースターになるんだからな」と言った。たまに雁馬の口から聞くハイパースターだが、それが具体的に何なのかは分からない。聞くつもりもない。
「行くぞ」
黒色と白色が立ち上がった。
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