第6話 孤児

——山田、こんどウチの課の者が移動なんだけどな? 席が空くわけだ。

 実は飯塚からは、以前からそんな話をされている。つまり、正社員にならないかということだ。飯塚は保全課の課長であるから、飯塚が推薦すればほぼ確実にそこの正社員になれるということだった。

——山田は誰よりもしっかり仕事をしてくれるしな。誰も文句は言わないはずだ。

 飯塚の話は、獅熊にそれなりの興味を引っ張った。今年で二十六歳、物騒な仕事も長くなってきたものだ。別にそれ自体が嫌になったわけではないが、これからもずっと続けるのかと思うと、一般人として普通の生活を送っている周りの人間が羨ましく見えることもある。また、山田でいるときの方が気が楽といえば楽かもしれない。そっちに行くことができれば、心に充満しているこのため息も、雲が散るようにスッと晴れるのだろうと羨望を見る。

 物騒な仕事からは足を洗って、これから一般人として生きていく方が良いのではないか。心の奥ではそう考えているからこそ、飯塚の話は興味を引っ張るのではないかと獅熊は考えた。

 実はもう、あの仲介人に話はしてある。雁馬のいないときに伝えたのだ。すると仲介人は驚くこともなく、数秒ほど考え、「本気で辞めるなら」の前提で、建設的に二つのことを話した。

 一つは、すぐには無理だ、ということだ。付き合いのある依頼主に話を通しておく必要がある。どんな世界でもそれを怠れば後々面倒なことになるし、法の届かない裏社会ではそれも顕著なことだ。仲介人と獅熊、双方にとって大事なことであるし、それでもその後の生活の安全が保障されるわけではないという。「ああ。分かった」と、もちろん獅熊は承知した。

 もう一つは、その間、これだけ仕事をしていけ、というノルマだ。これがかなり膨大なもので、ほとんど休みはないと言っていいほどだ。資本主義の悪い点である、雇用主が出来るだけ利益を得るために、労働者をこき使うのと似ていた。置き換えると、獅熊と雁馬で入る仲介手数料を、十分に稼いでからおさらば、ということだった。これから辞める、いや、辞めさせてもらうという立場上、獅熊から文句は言えなかった。「ああ……、分かった」と、しぶしぶ獅熊は承知した。

「いやあ、最近忙しいな。な、獅熊」

 何より面倒なのは、雁馬だ。あいつは、この連日の仕事の多さを大変だと嘆いたり、文句を言ったりするどころか、嬉しそうにのたまっている。立場上何も言えない獅熊の代わりに、あの仲介人へ文句の一つでも言って欲しいぐらいだが、「いやあ、働き甲斐ってのはこういうことだよな、獅熊」と一切その素振りもない。

 あいつは何を考えているのか分からない。この仕事を辞めると獅熊が言ったら、何をしてくるか、どんな反応をするか、見当もつかない。もしかしたら獅熊が足を洗ううえで一番厄介なのは、この雁馬なのかもしれない。

——実はいま、身内でいろいろ忙しくて。

 飯塚にはずっと、そう言ってある。相続で揉め事が、とか、話を聞いてくれない親戚がいて、とか、そんなことを言ってもう三カ月近くが経っている。本当は親戚など一人もいない。獅熊は記憶がないころから、孤児みなしごとしてここまで必死に生きてきたのだ。

——そうか。大変だな。落ち着いたらいつでも言ってくれよ。

 飯塚はいつも寛容に答えてくれる。ありがたかった。嘘を吐くのは性に合わない。受けられたらすぐにでも受けたいと獅熊は思う。だから、というのもあるかもしれない。だから、今夜は仕事があるというのに、飯塚に誘われて飲みに来ている。少しでもその罪悪感を軽くするためだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る