7 終焉③
結局リカに会えたのはそれから二週間もしてからだ。
夜中から雨が降り、その日の当直はとても忙しかった。当直あけの空も暗く、朝だというのに夕方のようだった。仕事おわりに真っ直ぐにいつものビジネスホテルに行く。俺は電気も付けず、ベッドに倒れ込んだ。実は体が重いせいか眠りが浅い。眠っても疲れが取れない。仕事も家庭も「待った」は通じない。俺はエナジードリンクで誤魔化しながら生活をしていた。
ピンポン。
呼び鈴がなる。俺は習慣で覗き穴からリカが来ていることを確認してドアを開けた。
リカは入ってくるなり、興奮していた。とても珍しかった。こんなに興奮しているリカを目にするのは初めてかもしれない。頬が上気している。
「ねぇ、真司くん、彼女自殺したんでしょ?真司くんが主治医だったって聞いたんだけどあってる?」
リカのいう彼女が木村スイであることは明白だった。俺は目を丸くする。確かに地方紙には載っていたけれど、リカの耳に入るほど噂になっているのか?俺が助けられなかったという事実が噂になっているのか?俺の顔が歪んだ。怒りたいのか悲しみたいのか分からない。リカに噂の出所を聞こうと声を発する前に、リカが弾んだ声で続けた。
「彼女、言ってたの。絶対に真司くんに見られながら死ぬんだって。病院で自殺したって小さく記事になってるの見て、絶対彼女だって思ったの。ついに実行したんだって」
俺はリカの両腕を持って怒鳴りつけた。
「どういうことだ」
リカはそんな俺の顔を見てクスクスと笑う。俺の怒りを無視して続けた。
「真実ちゃんとは会った?真司くんの妹の彗ちゃんと似てると思わない?真司くんの精子って強いし、真司くんの家系の遺伝子って強いよね」
俺は思わずリカを突き飛ばした。リカに対して初めて嫌悪を抱く。
「痛いよ。乱暴なんだから」
無表情のいつものリカの顔がそこにあった。
「ごめんね、ちょっと興奮が凄くて。彼女、本当に私の理想を現実にしてくれる人だわ。ちゃんと最後まで理想通りに終わらせてくれたみたいで、我を忘れてしまったよ。きっとね、今も真司くんのそばにいると思うんだよ。だってそのために死んだようなものなんだから」
俺は背筋がスーと寒くなるのを感じた。木村スイが死亡してから実際に体が重たい日が続いていた。
「彼女死んじゃったし、もう話してもいいんだ。彼女との約束で彼女が死んだら真司くんに話して良いって言われていたのよ」
俺は何がどうなっているのか頭が追いつかない。木村スイとリカはかなり親しい間柄だったということだ。でも、リカの方は木村スイの名前を呼ばない。名前を知らないというのは本当なのかもしれない。リカは興奮気味に話始めた。
「あの子と会ったのは真司くんと体の関係ができた頃。あの子の方から近付いて来た。すっごく突飛なお願いをされたんだ。あのね、真司くんの精子、そう、真司くんの精子を下さいって言われた。ビックリでしょう。でもさぁ、それなら彼とセックスして直接もらったらって言ったの。その私の反応に相手もびっくりしてた。キモいって言われなかったの初めてって。
どうも私にこの話をする以前から真司くんと体の関係を持ってた人たちにこの話を持ちかけてたみたいだよ。
私はなんでそんなものが欲しいのか気になって聞いたんだよね。そしたら、彼は私の魂の伴侶で、私は彼の子供を産むのて言うわけ。びっくりだよね。どう考えても面識があるようには思えない。ただの片思いじゃない。それなのに、そんなこと言う彼女にびっくりした。でもその想いの強さは伝わってくる。
私、意地悪だからさぁ。彼女に言ったのよ、魂の伴侶っていうけど子供を作るには精子がいるって分かってるんだねって。そしたら、彼女、だってここはそういう世界だかって言った。その後続けた言葉がね、私の心にストンと落ちてきたんだ。
彼女ね、肉体が結ばれると魂が離れていくんだって言ったの。魂の伴侶だと思って結婚して子供を作っては離婚して離れていく人たちがどれ程いると思うって聞いてきたの。それでね、きっと肉体が結ばれると魂の方は離れていくんだよ。だから私は生涯彼と肉体的な関わりは持たないって言ったの。
真司くん、私に好きな人がいるのは知ってるじゃない?その人とは結ばれないんだって言ったよね。あの頃は結構煮詰まってて、彼女のその言葉に救われたのよ。
だって私と彼は絶対に肉体的に結ばれない。だって母親の再婚相手だから。妹もいるわ。私にとって家は天国であり地獄。お母さんのこと大好きなのに、嫉妬で焼き切れそうになる。そんな時、思い出すの、肉体的に結ばれた二人の魂は離れていくって言葉。もちろん戯言だって分かってるけど、ちょっとだけ心が軽くなるんだ。
そうだった、精子の話の続きね。
実は私、あの頃、そうね学生の間だけだけど、ホテルでセックスをした後、中央のドリンクバーであの子に会ってあなたが出した精子の入ったコンドームをずっとあの子に横流ししてた。それで本当に妊娠できるのか疑問だったけど、彼女は多分出来るまでするんだろうなって思ってたんだ。国試の追い込みの時期にはもう大丈夫ですって連絡が来たから妊娠したのかなって思った。聞いてないから不確かだよ。でもいるんでしょう?
一度ね、どうやって精子を膣に流してるのか聞いたんだ。内緒って言われた。
ポツポツこれからの計画をしゃべってくれててね。三十歳には死ぬんだって言ってた。その時は真司くんのそばで死ぬって。どうやって死ぬのか尋ねたら、それはまだ分からないって言ってたなぁ。きっとこの何年かずっとどうすればあなたに見られながら逝けるか考えたんだろうな。
死んだ後、子供はどうするのってこれも聞いた。子供にはちゃんといなくなることを伝えてあげようと思ってるって言ってた。だから、きっと真実ちゃんはお母さんが死んじゃったこと知ってるんだろうな。父親の再婚相手がとてもいい人なんだって、彼女に任せておけばいい子に育つと思うって言ってた。でも魂の伴侶の話は誰もきっと教えてくれないから私が教えてあげるんだって言ってたな。
それにしても本当にセックスせずに子供を産んで、聖母マリアみたい。
あぁ、私の理想だなぁ。でも、私はあの人が誰か、私ではない誰かに向けて放った精を自分に取り込みたいとは思わない。本当はあの人を閉じ込めて、他の人には見せたくない。
まぁ、そんなことしないけどね。
真司くん、私とはこれで終わりだよ。私、ずっと彼女がどうなるのか気になって、あなたのそばにいたけど、彼女はもう逝ってしまったんでしょう。もう終わり。
今まで楽しかったわ。ありがとう」
俺はリカの話に呆然とした。そして、ホテルから出ようとしていたリカの体をやっとの思いで抱きしめた。
「ちょっと待て、木村スイの話はわかった。けど、なんでリカとの関係が終わるんだ?おかしいだろ?木村スイが死んだら、俺とリカの関係が終わるのか?」
俺の言葉に心底うんざりした顔をしてリカが「聞いてなかった?」と続けた。
「私は彼女がどうなるのか気になっただけ。真司くんのそばにいれば絶対に情報が入ってくると思ってずっと待ってただけ。私が真司くんのことなんとも思ってないのは知ってるでしょう?」
知っていた。リカが俺のことを好きな訳ではないと。ただの体の関係。だからこそ、なんでも話せたし、弱音も吐けた。たくさんの愚痴も聞いてもらってきた。
「体の関係を伴った友人だろ?友人としては好きだろう?」
リカの顔が歪む。
「真司くんは魂を彼女に持っていかれてるの?だから、自分ではものを考えられなくなってるの?好きじゃないよね?捌け口なだけ。体を何度も重ねて、私のことが好きって勘違いしてるのかもね。
あのさ、あなたには麻衣子ちゃんがいるじゃない。彼女に愚痴ったり、弱音を吐いたりしたらいいのよ」
俺の魂を木村スイが持っていった?いや、そんなことはない。俺は今ここにいる。
麻衣子は愚痴を言ったり弱音を吐いたりする関係の女ではない。家族には良いところだけ見せたい。弱い俺やダメな俺を受け止めてくれるのはリカだけだ。
俺は自分の顔が歪むのを感じた。今どんな顔をしているのか分からない。分からずとも今リカを説得しなければ俺はリカを失ってしまうかもしれない。
「麻衣子じゃないんだ。リカじゃないと弱音なんて吐けない。愚痴だって言えない。家族にはそんなことできない」
俺の言葉は少しずつ力を失っていく。
「ねぇ、その考え方、どこで身につけたの?家族に本音が言えなくて誰に言えるの?私はさぁ特殊な例なんだよ。あの人が家に来るまではお母さんに本音をぶつけまくってた。愚痴も弱音も吐きまくった。むしろ、家族にしか言えなかった。それが普通なんじゃない?」
俺は頭をぶん殴られた気分になる。血の気が引いていく。
「ねぇ、誰が言ったの?家族にはかっこよくいたいって」
「親父」
俺の小さな声をリカが拾いあげる。
「真司くんのお父さんもこういう愛人がいたかもしれないってこと?それってどうなの?息子として嬉しいの?かっこ悪いお父さんでも本音で接してくれる方が嬉しくない?」
俺は自分の両親を振り返る。仲のいい両親だ。喧嘩をしてるところを見たことがないし、だらしない父親を見たことがない。大人になって、父親に愛人がいるのかもしれないと思うことが増えた。それは自分がそうだから。
「親父に愛人がいるかどうかは別にして、本音でぶつかって喧嘩になるとか、両親が喧嘩してるのを見るのは嫌だったと思う」
リカが大きくため息をつく。
「はあぁ。本当にお子様だね。人間同士違う意見があるのは当たり前なんだから、喧嘩ぐらいするよ。そういえば、真司くんが誰かと喧嘩してるところ見たことないわ。はあぁ。もう、疲れる。ごめん。だけど、ちょっと相手してあげれない」
「ちょっと待てよ。とりあえず、セックスしてから考えよう」
俺は無理やりリカの首筋に顔を埋めようとした。
「私、本当に真司くんとセックスしてから、真司くん以外とセックスしてない。でも、その理由、なんでだと思う?」
俺はリカの謎かけに頭をあげた。やっぱり、本当はリカも俺のことを好きなのかもしれない。一縷の望みにかけて、恐る恐る答えた。
「俺のことを少なからず好きだから」
「その自分は好かれて当然、みたいなところ昔は羨ましく思ってたけど、今となっては本当に鬱陶しい。
あのね、セックスが気持ち良くないの。それでも、真司くんと付き合っていくために必要だから、ずっとしてきたよ。でも、サックスは好きじゃない。それとね、真司くんは彼女の愛した人だから、真司くんを傷つけたくなくてずっと黙ってきたけど、ちょっと言わせて貰うわ。
真司くん、本当にクズ男」
俺は今度こそハンマーで後頭部を思いっきりぶん殴られた衝撃を受ける。
「こんなに引き止められなかったら、こんなこと言わなかった。でもね、あなた浮気男なのよ。もし、あの人がそんな人なら好きになったりしなかった。私から最後の忠告。ちゃんと麻衣子ちゃんと本音で話をしなさい。家族を裏切るものじゃないわ。じゃあね」
リカが部屋を出ていった。最後は体を重ねることなく衝撃的な話をぶちかまし、いなくなった。俺はその場に膝から崩れ落ちた。
どうすればいいのか分からず、ビジネスホテルの床に転がっていると何故か木村スイの最後の顔を思い出した。リカの声が頭に響く。
「きっと彼女は真司くんの側にいる」
「おい、木村スイ、お前ここにいるのか。リカをずっと俺の側に留めていたのはお前の差金だったのか。お前いつから俺のこと好きなんだ。あの小学生のときからか?それとも高校生の俺を見てか?
おい、木村スイ。お前、本当に俺のことを好きなのか?それならリカを呼び戻して来いよ。俺にはリカが必要なんだ。クズ男と呼ばれてもいい。リカがいないとどうやって自分の心の整理をするんだ。木村スイ、リカを連れて帰って来い」
俺はブツブツと何もない空間に向かって呟き続けた。そう言えば、外が暗い中、ビジネスホテルの電気もつけてない。リカが来た時には明るかった気がしたが、今はまた暗くなっていた。テーブルの上の携帯電話に着信が来たようで振動が床にまで伝わってくる。
俺はのっそりと体を起こした。ベッドサイドのデジタル時計は1500と示していた。
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