7 終焉②

 病室には俺と主任が残っていた。心電図の波形は相変わらず不規則で、安定しない。いつどうなってもおかしくは無かった。俺も外科病棟主任看護師も言葉はない。彼女は尿道カテーテルの準備をしていた。ルートの確保はもうすでにしていた。まだ薬剤の投与は行っていない。挿入後すぐにロックしてある。

 病室のドアがノックされる。俺たちは動きを止めた。師長がドアを開け顔を出す。

「バルーン入った?」

「これからです」

「そう、ご家族がお見えになってて、バルーン挿入後に入って頂くことにするわ」

「わかりました。ロビーで待って貰って下さい。終わり次第声を掛けます」

 俺は二人の会話を黙って聞いていた。突然、師長に話を振られる。

「先生、ご家族に説明をお願いします。来られてるのは木村さんの父親と祖母だと思われます。病室でお願いします。カンファレンスルームでもいいですが、多分、ご家族としてはすぐに顔を見たいでしょうし…」

 俺はただ「わかりました」と答えた。

「先生、大丈夫ですか?顔色が悪いです。奥さんと木村さん仲良かったし、ショックですよね。なんでこんなバカなことをしたのか…」

 厳しい顔を木村スイに向けた。俺は自分が思っている以上に衝撃を受けているようだ。自分の顔色が悪いなんて、自分では気づいていない。俺は病室の鏡に映る自分の顔を見て驚いた。

 目が窪み、顔が真っ白い。見たことのない自分の顔に目が見開く。

「先生、処置終わったので、ご家族をお連れします」

 俺は小さく頷いた。


 主任に連れられてやってきた年配の親子は病室で眠る木村スイに目を見開いた。母と同じくらいの男が木村スイの父親だろう。そして年配の女性が祖母。二人はよく似ていた。俺は二人にスチール椅子に座るように促した。

「先生、この子は助かるんですか?薬を飲んで、じ、自殺を図ったって聞きましたけど、そんな自分で死ぬような子じゃないんです。母親に捨てられた可哀想な子ではありますが、私たちが大切に大切に育てたんです」

 祖母が縋るように俺に手を伸ばす。俺はそれを避けて、年老いた背中をポンポンと叩いて自分もスチールの椅子を取り出し二人の目の前に座った。

「当病院医師の伊藤真司です。今回、木村スイさんの主治医となります。結論から言いますと、今非常に危ない状態です。トリスタンというアレルギーの薬をスイさんは飲まれたようですが、この薬は二十年前に販売中止されたものです。副作用に重篤な不整脈を引き起こす恐れがあるためです。この薬をどこで手にされたの不明ですが、一緒に利尿薬や高脂血漿の薬など、トリスタンと一緒に飲むとこの副作用の確率が上がるような薬を一緒に持たれていて…」

 俺の話を聞きながら、祖母の方がカタカタと体を揺らし出した。

「やっぱり、薬なんてもらわなきゃ良かった。やっぱり、すぐに捨てるべきだったんだ。お爺さんが薬箱に飲まない薬をたくさん溜めてて、それをあの子が整理して捨ててあげるからって…。その中にあったんだよ、きっとそのアレルギーの薬も利尿薬も高脂血漿の薬も。スイは死んだ爺さんが寂しくしてると思って追いかけてくれたんだ。やぱっり優しい子だよ」

「母さん!」

 病室に父親の大きな声が響き渡った。自分の声にスイの父親も驚いてすぐに声のボリュームを押える。

「何をバカなことを言ってるんだ。母さんはスイの何を見てるんだ。スイを自分の理想に嵌めるのをやめてくれ!スイが父さんを追いかけるわけがないだろう。目を覚ましてくれ!その押し付けがスイを追い込んでるんじゃないのか?」

 厳しい声だった。直子おばさんの話では親の言いなりになる線の細い男のイメージだったが、スイの父親はしっかりとしていた。

「すみません。薬の出所はうちの両親だったようです。私はもう実家の方には顔を出していないので、実家の中がどうなっているのか知らないんです。スイは実家を出てからも祖父母と仲良くしてましたので。優しい子であることは間違ってないのですが…。ところで、先生の出身校は○△高校ですか?」

 スイの父親は不意を突いたように出身校のことを聞いてくる。今この場には何も関係ない。でも答えないでいるのは不可能だ。

「えぇ、そうです。私の出身校は○△高校ですが、それが…?」

 俺の答えに、父親は目を見開いて驚いた。

「中学の頃にスイからあなたの名前を聞きました。私も○△高校に行こうかなって言っていて、でも結局、看護師になりたいし、男の子と話すの苦手だからという理由で女子校にしたんです。スイは中学の頃に憧れていたヒーローとこうして同じ職場で働いていたんですね。嬉しかったでしょうね」

 そう笑ってから、「何でこんなこと、真実もいるのに…」とすぐに表情を曇らせた。

 突然、心電図系が異常を知らせる音を響かせる。廊下からバタバタとスタッフの駆けつける音が聞こえる。

「スイさんの心肺が停止しました。すぐに蘇生活動に入ります。ご家族の方は外でお待ち下さい」

 それだけ告げると、俺は木村スイの背中に救急カートの板を入れる。主任が一番に入ってきてアンビューバックを手にした。俺は木村スイを跨いで膝立ちになり心臓の上に手を当てる。主任と二人息を合わせて救急処置を行なった。よく見ると入れたばかりの尿道カテーテルの先のバックに黄色の液体が五百ミリリットル以上入っている。絶対的に利尿薬も飲んでいる。時刻は十三時三十分。服用後、血中の薬物濃度がピークに達したのだろう。

 今まで指で数えるほどしか見ていない木村スイの薔薇のような笑顔が俺の脳裏を掠めた。ずっと擬態して生きてきた女。この女にとって死ぬということはどういう意味があるのか。木村スイの心臓を再び動かすために汗を撒き散らしながら心臓マッサージを行う。幼い日に見た木村スイ。さっきスイの父親が言っていた。高校の頃の俺も見られていた事になる。麻衣子が言っていた木村スイの想い人は俺でしかないのではないか?俺の前で死んで、俺の印象に一生残るつもりなのか?木村スイの思い通りになんてならない。絶対に生かして、病院に迷惑をかけたと一生罪悪感を持って生きればいい。

 俺は十五分以上、一心に木村スイの心臓をマッサージし続けた。俺を止めたのは院長だった。

「もういいよ。木村くんは還ってこない。すまないね、プレッシャーをかけてしまって」

 俺に「死なすなよ」と呟いた人と同じ人物とは思えないほど優しい声で止められた。みんな俺を見ていた。俺は、もう誰も彼女が還ってくると思っていないことを知る。なぜなのか、全身の力が抜けてしまった。力が入らない。その上、体が重い。まるで一人人間を背負っているように重い。俺は主治医として、家族に報告しなければならない。重い体を引き摺って病室を後にする。待合室で待っていた家族を病室に招き入れ、遺体と対面してもらった。

 祖母は泣き崩れ、父親は静かに涙を流した。

 俺たち病院スタッフはそれを静かに見ていた。


 葬式は家族葬で行われ、病院からは外科病棟の看護師長と主任が出席した。俺は木村スイが倒れてからずっと対応していて知らなかったが、入院患者の付き添いやお見舞い客などが騒いでいたそうだ。病院の名前も出て看護師が勤務中に販売中止の薬を飲んで死亡したと地方紙が掲載した。医療者から見れば自殺したように感じるが、本当に自殺なのか、警察が入って調査も始まったが、すぐに遺書が見つかって、自殺と断定された。

 俺は、木村スイの心臓が止まった時から、なぜか体が重くて仕方ない。初めての死亡患者というわけでもないのに、主治医だったのは二時間なのに、木村スイの生前の顔がチラついて離れない。麻衣子が顔色の悪い俺の心配をする。愛も小さな手で俺を慰めてくれた。可愛い我が子に慰められても心はスッキリしない。

「真司君はスイちゃんに心を持って行かれたの?おかしいよ。私だってスイちゃんが自殺するなんて信じられないし、スイちゃんが目の前で死んじゃったら助けられなかった自分を責めるかもしれない。でも、どうしようもなかったんだって聞いたよ。高橋さんが言ってた。助けようがなかったんだって。ねぇ、真司くん、元の真司くんに戻って」

 俺は麻衣子の苦しそな顔を見て、自分の不甲斐なさを自覚する。木村スイも助けられなかった上に、麻衣子に情けない姿を晒している。俺は何をやっているんだ。俺は閃いた。そうだ、リカに会おう。リカに会って情けない俺を解放して、いつもみたいに慰めてもらって元気を取り戻そう。俺は次の当直明けの日の予定をリカに確認する事にした。

 俺を心配そうに覗き込む麻衣子に今の精一杯の笑顔を向ける。リカに会うと思えば、それまで頑張れる気がした。

「麻衣子、俺は大丈夫だ。そうだよな。あれは仕方なかったことだ。彼女が自分でその道を選んだんだから。俺は愛のパパで、麻衣子の旦那だから、しっかりしないとな」

 俺の言葉に麻衣子の瞳から涙が溢れた。

「良かった。真司くんの目に力が戻ってきたよ。良かった。本当に」

 麻衣子は俺を抱きしめて涙を流す。俺は麻衣子の背中に手を回して、その背を撫でながら、リカに会ったら何から話そうかと考えていた。

 

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