8 魂①
愛が二歳の誕生日を迎える夏、麻衣子が二人目を妊娠した。
「あいちゃ、おねーちゃになるよ」
辿々しい言葉で俺の母に報告する娘に俺は思わず目を細め口元を緩めた。今日は麻衣子にのんびり一人で過ごせる一日をプレゼントするために、愛を連れて実家に帰ってきた。俺は相変わらず家族にかっこつけたままだ。あの日、リカに捨てられて、俺はそれから新たにリカの替わりを探すことはしなかった。愚痴や弱音は自分の中で処理するように切り替えた。それでもコントロールしきれない感情が時々溢れてくることがあるが、今はグッと体に力を入れてやり過ごしている。
「お袋、親父は?」
俺はクルクルと実家を見回した。隠れるような場所はない。親父と話をしないと先に進めない気がした。お袋の顔が曇る。
「お父さんね、昨日の夜から帰ってこないのよ。電話してるんだけど繋がらなくて、愛ちゃんがくる日なのにね。ごめんね」
俺はドキリとする。俺の顔を見た母が父を心配していると勘違いして言葉を続ける。
「いつものことなの。最初は心配してたんだけど、次の日の夜までには普通の顔して戻ってくるから心配しなくて大丈夫だよ」
「母さんは大丈夫なの?」
俺は思わず聞いていた。
母親が目を丸くする。次の瞬間、フッと力を抜いて、悲しそうに笑った。
「お袋呼びじゃなくなってるよ。ふふ、大丈夫。お父さん、何を考えてるのか分からない人だけど、私たち家族にはとっても優しい人よ。ただね、そうね、嘘も沢山あるから、寂しいわよね。あなた達にも寂しい思いをさせてきたかもしれないわね」
母の笑顔はとても静かだった。でもその静けさは海の底の寂しく暗い静けさを思わせた。母は孤独なのかもしれない。
「お袋は親父のこと愛してる?」
俺は自分でも思ってみないことを聞いた。自分でも驚いているその問いに母はまた寂しそうに笑った。
「珍しいこと聞くわね。そうね、本当のことを言っっていい?」
俺は頷く。
「私はあの人のことを憎んでいるわ」
一瞬、母の顔が般若のお面のように見えた。あんな顔の母もあんな声の母も初めてだった。愛と遊んでくれていた彗もこちらをチラチラと見ている。俺が瞬きをした後にはいつもの母の顔が目の前にあった。
「真司、女はね、かっこつけられるよりも本音を話してくれる方が嬉しいの。もし麻衣子さんにかっこつけるだけしかしてないなら、麻衣子さん、とっても寂しい思いをしてると思うわ。真司はあの人に似てかっこつけなところがあるから。もし、そのカッコ付けの仮面をよその女の前で脱いで心を見せているなら、その女のこと、母さんなら許せないわね。殺してやりたいと思うかも。もうね、見ないフリを一度始めるとフリを終わらせるのが難しいのよね」
言葉と母の表情がチグハグだ。怖い。
彗が俺を見ていた。見たこともない冷たい顔をしている。女の顔だ。この家はこんなに冷たかっただろうか。俺が見ようとしなかっただけで、もしかしたらずっとこの冷たい空気は流れていたのかもしれない。
俺はその場にいるのが居た堪れなくなり、「ちょっと庭を見てくる」とリビングの窓を開けた。すぐに庭に出れるようにサンダルが一つ置かれている。父親でも出れるように昔は大きなサンダルが置かれていたのに、そのサンダルは小ぶりの小さなものだった。俺はそれを無理やり履く。小さな庭には芝生が植えられ青々としている。子供が遊べるように小さな砂場と小さな滑り台、それからブランコが置かれていた。俺が小さな頃に設置されてたものとは違うそれらの遊具。とても綺麗だった。父親が愛のために綺麗にしてくれたのだろうか?
結局、父は夜まで帰ってこなかった。母も彗も父には何も触れない。だから俺も言わなかった。
夕飯を済ませ、麻衣子へのお土産を沢山手にした帰り際、ボソリと彗が呟く。
「本当にお兄ちゃんもことなかれ主義だよね。お父さんにそっくり」
俺は彗を振り返った。彗は俺から顔を逸らす。愛を車のチャイルドシートに乗せた母が俺を呼ぶ。俺はすぐに車に走った。母の話なら父はいつもこの時間には帰ってきているはずではないのか?誰も父の心配をしないのはおかしいのではないのか?でもそれを聞く勇気はなかった。俺は、運転席に座り、隣の愛に「帰ろうか」と声をかける。愛は「うん」と頷いた。
助手席側の窓から母と彗が見える。俺は助手席の窓を下ろし、お礼を言う。
「またおいで。麻衣子ちゃんの負担も減るだろうしね。麻衣子ちゃんが実家に帰る時は真司だけ帰ってきてもいいのよ。ご飯くらい食べさせてあげるから」
「もう、お母さんはお兄ちゃんに甘いんだから。麻衣子さんいなくても一人で自炊くらいできるよ、一人暮らしをしてたんだし」
彗の言葉にカチンときて俺は言い返す。
「彗は一人暮らししたことないもんな。一人ぐらししたらどうだ?」
「いやよ、スーパーの給料なんてたかが知れてるの。実家暮らしだからおしゃれしたり、推し活したりできるんだよ。私はずっとこの家にいるの」
俺は意外な返答に目を瞬かせた。
「彗は嫁に行かないのか?」
俺の問いに母が「もういいでしょう。早く帰りなさい」と珍しくぶっきらぼうに言い放つ。彗が母の声に重ねるように「私が嫁じゃないの。私にはもう何人か嫁がいるのよ」と笑った。
俺には訳が分からなかったけれど、愛が「ササヘル様、ミュモサ、しーちゃん、しゃんにん」と言う。助手席のドアから彗が手を入れて愛の頭を撫でた。
「ありがとう。覚えてくれたのね!そうよ、ササエル様とミモザとしーちゃん。私の三人の嫁。また来たら見せてあげるね」
愛は嬉しそうに頷いた。俺は誤魔化されたようにも感じたが、もうこれ以上何も喋ることもなく、「じゃ」と言って助手席の窓をあげる。慌てて彗が手を引っ込めた。窓の外から母と彗が似たような顔をして手をふる。俺と愛は車内からそれに応え、俺はサイドブレーキをおろし、車を発進させた。
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