5 遺伝子③

 問題はいくつかあったもののスムーズに結婚式当日を迎えることが出来た。

 結局、式は新人の入ってくる四月は避け、三月に行うことになった。急な予定だったが、麻衣子のチェックしていた式場の一つに空きがあった。式までに3ヶ月しかない。選択肢が少ないことが功を奏した。麻衣子が妊娠していることも、選択肢を少なくする要因の一つだ。先輩医師達が結婚式の準備でパートナーとよくいさかいが起こると言っていた。けれど、選択肢がないことで逆にスムーズにことが進んだ。お金を払えば解決することに関しては出し惜しみすることもない。

 結婚しても麻衣子は仕事を続ける。財布も別だ。家は中古の一軒家を購入する予定だ。共同で買うとなると面倒なので、俺名義て購入する。光熱費は麻衣子持ち。あと、保険やら携帯やらは各自で支払い予定だ。子供のことは学資保険も含めて産まれたら通帳に五万振り込む予定だ。食費は月に五万俺が出す。その中で麻衣子がやりくりしてもいいし、麻衣子がもう少し出してもいい。そこは任せる予定だ。

 俺はこの関係にホッと胸を撫で下ろす。家族になったら通帳は一つにしないと、なんて言われたら俺はそのまま結婚しようとしただろうか。麻衣子が理想通りの女で本当に良かった。

 俺は鏡に映るウエディングドレスを着た麻衣子を見る。籍は二月四日に入れた。麻衣子の母が暦を気にするタイプの人間で結婚式は大安にできないから籍だけでも大安に入れて欲しいということだった。二月四日に籍を入れたと事後報告すると、麻衣子の母は麻衣子そっくりなキラキラした目で「それは縁起がいいわ。旧正月の日ね」と言って大いに喜んでくれた。

 綺麗に化粧した麻衣子の隣に黒い紋付きの留袖を着た麻衣子の母もいる。俺は麻衣子の母を見て、将来の麻衣子の姿を想像した。麻衣子のお腹の子は多分女の子だ。麻衣子とお腹の中にいる子もきっとこんな母娘おやこになるのだろう。

「真司くん、うちの麻衣子、かわいいだろう。君のところにお嫁に言っても俺の妹には変わりない。うちのかわいい妹を泣かせてみろ、泣かすからな」

 ムキムキな筋肉を大きなスーツで包んだ大きな男が後ろから声をかけてくる。いや俺の後ろ頭に向かって上から見下みおろしてくるような話しかけ方だ。この大きな男は麻衣子の兄でまだ結婚していない。俺よりも二つ年下だ。この男は挨拶に行った当初から俺のことを毛嫌いしている。妹の麻衣子の手前、気に入らないという感情は表に出さないが、それでも何となく分かる。この男は俺のことが嫌いだ。俺は嫌われていても気にしない。関わることなどそうそうない。

 俺はニッコリ笑って「麻衣子のことは幸せにしますよ」と返事する。

「その笑顔が嘘くさいんだよ」

 麻衣子の兄は大きな肩を落として、今度は力無く小声で言う。趣味が筋トレなだけで体が大きくても喧嘩をするような人間ではない。実は俺の方では麻衣子の兄を好ましく感じていた。

 麻衣子の父はここにはいない。俺の両親と一緒に出席者の相手をしている。院長への挨拶やもう既にきている俺の同僚や友人、麻衣子の同僚や友人と喋っていた。

 俺もチラリと見たが、もうすでに智希も来ていた。友人代表として挨拶をしてくれることになっている。麻衣子の友人代表は大学時代の友人で俺は会ったことのない人間だ。彼女は既に結婚して2児の母親だそうだ。今の病院の友人として木村スイがこの会場にやってくる。


 結婚が決まって、リカと一度だけ会うことが出来た。結婚してもこの関係を続けてくれるのか問うと、「真司くんがそうしたいなら、私は構わないけど?」と表情の読めない顔をして言った。ところが、木村スイが俺に松本さんってリカのことを言ったのだと言った途端、目が見開かれた。明らかにおかしい。俺が問いただしてもリカは「知らない」と言い続けた。埒があかないと判断して、質問を変えた。

「木村スイは俺とリカの関係を知っているのか?」

 この質問に何も答えない。

「リカは木村スイのことを知ってるのか?」

 これにも無反応。

「リカは木村スイと喋ったことがあるのか?」

 当然の如く、これにも反応がない。

「木村スイは俺と麻衣子の関係を壊そうとしているのか?」

 そんなこと分かるわけがないのに、これこそ無反応だろうと思っていた俺に、リカは首を横に振った。俺は目を瞬かせた。もう一度同じ質問をする。ゆっくりとリカが頭を振る。もう俺はリカと木村スイの関係がどうであっても良いことにした。木村スイが俺の邪魔にならないならそれでいい。リカからこれ以上のことは聞くことが出来ないのだと何となく感じていたし、リカとの貴重な時間を木村スイのことで使いたくはなかった。俺はその日リカの全てを食べ尽くすように体中を貪った。

 

 俺の頭に一瞬リカの顔が浮かんだ。鏡に映る麻衣子の顔がリカと入れ替わって見える。俺の横で麻衣子の兄が怪訝な顔をした。何か言いたそうにしたが、彼が声を発するより先に控え室のドアが開き、俺の母親が「真司」と俺を呼んだ。

 俺の母親は麻衣子に目を止め「うわぁ、お人形さんみたい」と言いながら留袖の裾を気にしながらこちらに早足でやってくる。俺も母親に向かって歩いた。

 ショートヘアの髪のところどころにラメを散らした母が顔を近づけ「お父さんが真司を呼んできなさいって。お式が始まる前に院長先生に挨拶した方がいいわ」と小声で言った。

 俺はレストルームに行く途中、院長と事務長、看護師長三人揃ってラウンジに行くのを見ていた。もちろん、出席のお礼を言う必要はあるけれど、式の始まる前に行くべきなのか迷っていたのだ。母親が呼びに来てくれて助かった。

 俺は母と並んで控え室を出る。

「彗は?」

 母親は苦笑しながら「はるくんに大学生活とか東京の話とか聞いてる」と言って、ため息をつく。陽は母方の従弟で、彗の二つ下だ。

「本当に真司は昔から彗のことが大好きよね。麻衣子ちゃん、なんかどことなく彗に似てると思うんだけど…。最近は真司から彗は?って言葉聞かなくなってたから妹離れしたのかと思ってたんだけどね」

 麻衣子の兄もシスコンだけど、俺も立派なシスコンだ。だから、兄の気持ちが良くわかる。もし彗を泣かせるような男がいたら、俺はそいつを殺すかもしれない。彗を大切に大切に優しく宝物として扱うような男でないと許せない。その点、俺は麻衣子を宝物のように大切にしている。俺のような人間なら彗を託してもいいだろう。

 ラウンジに入るとまず彗と陽が二人で膝をくっつけて話をしているのが見えた。陽は一九歳でもう立派な男だ。そんなに近くで話ていいのか?おじさんとおばさんは何をしているのだと目だけ動かしてざっとフロアを見る。陽の両親の数男おじさんと直子おばさんが麻衣子側の出席者を見ていた。青い顔をしたおばさんをおじさんが支えているようにも見える。おばさんの顔を久しぶりに見て、誰かに似ていると思った。

「真司くん、今日はおめでとう」

 不意に声をかけられた。振り向くと院長が立っていた。院長の右隣に看護師長、左隣に事務長が座っている。その奥で正装姿の父親が無表情に立っていた。俺は一呼吸して、ゆっくりと「ありがとうございます」と返事をする。そして続け様に、「こちらこそ、式に足を運んで頂きありがとうございます」と頭を下げた。頭を挙げると院長の顔に満面の笑顔がある。

「当病院の医師と看護師が手を取り合って家庭を持つと言うのは、本当に嬉しいことだ。しかも二人とも仕事を続けると聞いている。家庭を持っていても働きやすい職場作りをしてきたかいがあるよ。スタッフが働きやすい職場はやはり患者さんにとっても良い環境と言えるからね。君たちみたいな世代がこれからの医療界を支えていってくれなくてはいけない。出生率にも貢献してほしいから、何か困ったことがあればいつでも言ってくれ」

 院長は右手を差し出す。医療業界は、特に医者の世界はまだまだ縦社会だ。院長の言葉に嘘はないけれど、素直に受け取るのも些か怖さがあった。俺は内心の不安は表に出さず、院長の右手に自分の右手を差し出す。院長の手が俺の出した右手をさっと握りブンブンと振り回し離れていく。その後、看護師長に「うちのスタッフを大切にしてね」と言われ、事務長にはただ「おめでとう」とだけ言われた。

 今度は控え室から麻衣子の兄が俺を呼びにくる。

 いよいよ式が始まる。

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