5 遺伝子②

 呼び出された日、俺は麻衣子の部屋に向かった。リカには智希と木村スイの食事会の日に会ったきりだ。長いときはは3ヶ月空くこともある。この十数日はその期間と同じほどにリカに会っていないように感じた。本当は麻衣子に会う前にリカに会いたかった。会って愚痴を言って思いっきりセックスして、俺の弱い部分をさらけ出して、そして、木村スイのことを聞いたのに。叶わないことを思っても仕方がない。俺は運転中に大きなため息をつく。

 いつものパーキングに車を入れ、麻衣子のアパートの呼び出しベルを鳴らす。自分の心臓の音が耳に響く。木村スイから何かを聞いた麻衣子が俺にリカとのことを問いただすのだろうか。もしかしたら、問いただすまでもなく、別れ話になるのだろうか。今、麻衣子と別れたとして、また一から人間関係を作って恋人になるかもしれない顔のない女を頭に思い浮かべげんなりする。

 程なくして、玄関のドアが開いた。一応、合鍵も持っているが、改まって話があると言われ、自分の持つ合鍵で麻衣子の部屋に入る勇気が持てなかった。

「鍵持ってるのに、珍しいね、玄関のチャイム鳴らすの」

 麻衣子が不思議そうに言う。怒っている様子はない。いつもと雰囲気は違うように感じるが、決して嫉妬に狂った女の顔はしていなかった。俺はもしかしたらとんでもない勘違いをしているのかもしれない。木村スイももし麻衣子に言うなら俺に言わず、麻衣子にだけ耳打ちすればいい。俺は麻衣子の部屋のいつもの定位置に座る。

 麻衣子がお茶をいれてくれる。コーヒーは勤務中に飲み過ぎるほど飲むから、家では紅茶を飲む俺のためにコーヒー党の麻衣子は俺のためだけに紅茶を入れてくれる。俺の目の前にいつものダージリン紅茶が置かれた。ティーカップではなく大きめのマグカップに入っている。これも俺専用だ。麻衣子が隣に座る。麻衣子のマグカップにも俺の紅茶と同じ色の飲み物が入っていた。いつもはコーヒーが注がれている。

「どうして今日はコーヒーじゃないんだ?」

 俺が聞くと「待ってました」と言わんばかりに麻衣子は俺を見た。

「なんでだと思う?」

「コーヒー飲み過ぎたから?」

 俺は適当に答える。麻衣子は勢いよく「違う」と声を貼った。そして、一冊の冊子を鞄の中から取り出した。

「生理来ないんだよねって言ってたでしょう」

 テーブルの上、俺の目の前に可愛らしいイラストのついた「親子手帳」と書かれた冊子が置かれた。俺は一瞬頭の中が真っ白になった。思いもしなかった現実に声が出ない。避妊はしっかりとしていた。いや、確かに一度だけゴムがない日にセックスした。でも中には出してない。精子は外に出したはずだ。妊娠確率は確かに、膣外射精でも膣内射精でも同じだ。同じだけど、たった一度のゴムなしセックスで妊娠するとは思いもしなかった。いずれは結婚する予定ではあったけれど、社会的に考えても結婚をしてから妊娠という正規の流れでいきたかった。ただ、その思いを表に出さないように細心の注意を払う。

 麻衣子が俺の様子をジッと観察していた。視線が痛いくらいだ。最初の一言を間違えたらダメだ。これから結婚する相手とこれが結婚への最初の一歩だ。順番が違うけれど、それは傍に置いておく。俺の不注意ではあるけれど、麻衣子はこの妊娠を喜んでいるのだ。俺に報告する前に産婦人科に行き、市役所にも行き、親子手帳をもらって来ている。それはもうすでにお腹の中にいる子供の母親としての行動だった。俺がどんな答えを出しても、親子手帳を持って来ている時点で産むという意思表示だ。

 麻衣子の視線を感じながら、俺は一言目を発する。

「麻衣子、俺と結婚して下さい。二人でこの子を育てて行こう」

 俺はプロポーズをしていた。口をついて出た言葉だ。声を発する瞬間まで「ありがとう」というつもりだった。妊娠報告をした女性がこの言葉に感動して泣いてる動画を何度か目にしたことがあるからだ。でも、口をついて出て来たのはプロポーズだった。

 麻衣子の目に涙が盛り上がっているのが見えた。咄嗟にでた言葉は正解だったようだ。俺は一先ず胸を撫で下ろす。そして、涙が頬を流れる麻衣子を抱きしめた。

 この部屋に来る前まで考えていたことがバカらしくなってくる。大丈夫だ。自分に何度か言い聞かす。これから、麻衣子と結婚して子供が産まれ、幸せな家庭を築く。その未来は輝かしいものに見える。ただ、そこに覆い被さるように木村スイの妖艶な笑顔が現れる。俺は麻衣子に気付かれないように頭を振る。そして、泣いてる麻衣子を自分の胸から引き離し、両頬に流れる涙を拭ってやる。

「本当はもっと色々凝ったプロポーズを考えてたんだけどね。良いかな。麻衣子のいつもの部屋で、いつもの服を着て、いつものお茶を飲みながらのプロポーズでも」

 俺の言葉に麻衣子は満面の笑みで「良いよぉ。幸せだよぉ」とまた泣き始めた。俺はもう一度、麻衣子を抱きしめ、泣き止むまでジッと抱きしめていた。俺の頭の中にはこれから結婚に向けて両親への挨拶、結婚式、それから新居のことや出産のことが頭を巡る。そして、リカの顔が出てきた。リカは俺の結婚を喜んでくれるだろうか?リカは結婚しても関係を続けてくれるだろうか?そして、リカに会ったら聞かなくてはならない木村スイのこと。男を知らない女に擬態した妖艶な笑顔を持つ女のことを。

 

 次の日から、俺と麻衣子の結婚の準備が始まった。妊娠報告を受け、プロポーズをした後、すぐに両親への挨拶の日取り候補をあげて行く。結婚式は安定期に入ってすぐ出来るように結婚式場もおさえなくてはいけない。プロポーズをしたその日、麻衣子は部屋の引き出しの中からゼクシィを取り出した。何件か式場にチェックが入っている。俺はそれを見た瞬間に「やられた」と咄嗟に思った。考えるより先に、「まいった」と頭の中で呟いていた。麻衣子が計画的に排卵日近くを選んでわざとゴムの在庫を空にしていたのかもしれない。それでも俺が持っていたら、俺は自分で持ってきたゴムを使っただろう。だけど、俺はその時ゴムを持っていなかった。いや、持ってはいたけど、今まで一度も麻衣子と使ったことのないゴムでどこで手に入れたのかと疑われるのが嫌でゴムなしでセックスしてしまったのだ。

 確かに、いづれ結婚しようと思っていたけれど、こういう形で結婚したくなかったし、何より、なんとなく麻衣子の掌で踊らされたように感じて面白くなかった。とはいえ、まいた種だ。俺が回収する必要がある。全てを俺はグッと腹の底に飲み込んで麻衣子の隣に座り、笑顔で今後の計画を立てた。

 病院にはお互いの両親への挨拶の前に報告することにした。麻衣子の初めての妊娠で、安定期に入るまでは病院のサポートも必要になる。もちろん、お互いの上司にこっそりと報告することにしてあった。

 俺は「こっそりと」「内密に」ことが進むとは全く思えなかった。麻衣子はそんなにおしゃべりな方ではないと思うけど、この喜びをこっそりと胸に秘めておけるわけがない。だから、あくまで「公にはしない」という意味でこっそりとだ。結婚式の日取りも病院に確認して院長に出席してもらう必要があるだろう。今まで先輩医師の結婚式に出席したが、院長も事務長も招待されていた。職場の誰を呼ぶべきか事務長に相談する必要がある。麻衣子が妊娠していることもあり、準備にそれほど負担はかけたくない。俺も結婚式の準備にそれほどの時間をかける気にはならない。だからこそ、最低限必要なことを知りたかった。

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