4 視線③
俺は自宅に帰って、もう一度シャワーを浴び、麻衣子を迎えに病院まで愛車のベンツを運転する。麻衣子は暗くなった駐車場で待っていた。待ち合わせを麻衣子が一旦家に帰って支度の出来る時間にしても良かったのだが、木村スイが子供の寝る時間までには帰りたいと言うから麻衣子の日勤終わりに合わせた。
俺は麻衣子の姿が目に入ると軽いクラクションを鳴らす。麻衣子がこちらに気付き、助手席側に回り込んだ。
ガチャン。助手席のドアが開く。
「迎えに来てくれてありがとう」
麻衣子が車に乗りながら言った。俺は麻衣子がドアを閉めるのを確認し、車を発進させながら頷く。白いコートが麻衣子によく似合っている。
「そのコート、買ったの?すごく似合ってる」
俺の言葉に麻衣子の顔が破顔した。本当に嬉しそうに「真司くんは本当に私の喜ぶことを言ってくれるね。今日も日勤看護師で彼氏が全然新しい服に気づいてくれないって話題だったんだよ」と話を進める。俺も麻衣子の褒め言葉に満足感を得る。打てば響くように、こちらが思うように動いてくれる。麻衣子は本当に俺と相性がいいんだ。
「今日のお店、楽しみだよね!スイちゃんに男の人紹介するのも楽しみだけど、やっぱり、美味しいものを食べると思うと、それとは別に楽しみ」
麻衣子が楽しみで仕方ないと言った声を出す。俺も笑顔で頷いた。
智希と木村スイは現地集合だ。
実は智希とはもう一年近くあっていない。時々、メールをする仲だが、わざわざ時間をとって会うこともなかった。循環器学会で昨年までは会っていたけれど、今年は智希の体調が悪く会えなかった。
「ちょうどの時間に着くね。良かった、日勤六時には終われて」
麻衣子が自分の携帯電話の画面を確認する。看護師も時間通りに勤務が終わる業種ではない。遅い時は日勤の終わりが二十一時になったりする。この病院は院長と経営陣が頑張ってくれているようで、他所の病院にくれべて残業手当を出してくれる。医師の給料は他の業種に比べて基本給は高いが、サービス残業の時間は一番長い。それを他の業種の人間に愚痴る気はない。他所の病院ではサービス残業が当たり前と聞き、つくづくうちの病院は対応がいいなと思う。
他愛もない話を麻衣子としているうちに食事をするピザフォルマジロに着いた。俺たち二人はすぐに入店する。席に案内されると智希が先に来て座っていた。
俺たちに気づいて智希が右手を挙げた。俺も右手をあげる。
「久しぶりだな」
相変わらず、俺とは違う男前だ。とはいえ、雰囲気がチャラい。髪を伸ばしているせいだ。なぜ伸ばしているのか、一度聞いたが、結局はっきりとした理由は教えてくれなかった。髪を切ればもっとモテるかもしれないのに、勿体無い。
テーブルに近づくと二つのワイングラスに透明な液体が注がれていた。
「智希さん、こんばんは。初めまして、お話は時々お伺いしてます」
麻衣子がにこやかに智希に挨拶をする。智希も「こんばんは、初めまして。真司の友人の福田智希です」と立ち上がる。二人は軽く会釈をした。俺は頭を下げる二人を横目に智希の前の席に座る。二つのワイングラスに入った透明な液体の底から小さな気泡が時折水面に向かって浮き上がっている。
俺の隣に座った麻衣子が二つのワイングラスに気付き「もうスイちゃん来てるんですか?」と智希に尋ねた。
「あ、そうそう、木村さん、今レストルームに入ってるよ。感じのいい子だね。俺が店に入ってすぐに彼女も来たから二人でもう十分くらい話してるよ。連絡先交換もしたから、麻衣子ちゃんが望んでる展開まではもういっちゃったよ」
智樹が腕を伸ばして俺の前にあったグラスを自分の隣の席に移動させた。
俺は改めて智希の顔を見る。女顔の智希が髪を伸ばしていると、普通の女よりも可愛い。きっと木村スイよりも智希の方が可愛いかもしれない。何となく、男なれしてなさそうな木村スイにはピッタリな存在だと思ったのだ。
麻衣子がとても意外そうな顔をした。木村スイはきっと麻衣子には「男なんて」みたいなことを言っていたのだろう。それが蓋を開けてみれば、二人ですでに連絡先交換までしている。木村スイに裏切られたように感じたのかもしれない。
麻衣子に俺が声をかけるよりも一瞬早く、麻衣子の携帯電話が鳴った。メールの通知音だ。麻衣子は携帯のロックを開けてメッセージを確認する。俺も横から覗き込む。
スイという名前の画面に、「ごめんなさい。子供の体調が急に悪くなって、お料理注文する前に帰らせてもらっても大丈夫かな?一応、福田さんと連絡先交換はさせてもらったから」と四角い吹き出しに絵文字交りに書かれていた。麻衣子はため息をつく。小さな小さな声で「子供が体調不良なら仕方ないじゃん」と漏らした。俺が見ていることは想定内なのだろう。麻衣子は俺を振り返る。俺は何となく頷いた。
「智希さん、すみません。せっかく来てもらったのに、スイちゃん子供の調子が悪くなったみたいで、もう帰るって…」
「あぁ、全然いいよ。この店、来てみたかったし」
本当に何でもないことのように智希は応じた。その智希の目が何かを捉えた。俺たち二人の後ろで「こんばんは」と木村スイの声がした。俺と麻衣子が振り返るまでもなく、木村スイがスッと智希の隣の席に座る。
「麻衣子ちゃん、伊藤先生、セッティングして下さったのにすみません。福田さんも、ありがとうございました。本当に残念なんですけど、子供がちょっと高熱出してるみたいで、うちの両親に預けてるんですけど、仕事じゃないので、今回は帰って子供をみてやりたいと思います」
彼女はテーブルに額がつくのではないかと思うほど深々と頭を下げた。麻衣子が慌てて木村スイの肩を叩く。
「大丈夫だよ。仕方のないことでしょう」
さっきまで不機嫌だった麻衣子はもう
「あっ。つけてきてくれたんだね。やけに遅いから、もしかしたら、着けてくれてるのかなって思ってたんだ。彼女のために買ったけど渡せなかったプレゼントなんだ。持っておくのも嫌だし、でも捨てるのも嫌だし…。
今回、木村さんを紹介してくれるって聞いた時に友達としてはちょっと重たいかもだけど、友達だからこそ、もしかしたら受け入れてもらえるかもって思って思い切って持ってきたんだ。本当に良かったよ」
智希が嬉しそうに木村スイの胸元に輝くネックレスに手を伸ばした。元々誰に対しても距離の近い智希だが、初めてあった友人の彼女の友達にする態度ではないように思った。木村スイも何も言わない。赤くもなっていない。
だいたい、今日会ったばかりの女に彼女のために買ったアクセサリーを渡す智希もおかしいし、それを受け取る木村スイもおかしい。不可解な二人に心の中で悪態をつく。
少し強張った顔の麻衣子が自分の胸元のネックレスを右手で摘み上げた。
「ねぇ、一緒じゃない?真司くんも知らなかったんだよね?こんな事ってある?」
麻衣子の顔から笑顔が剥がれ落ちていた。木村スイが首を傾げる。
「似てるけど違うんじゃないかな?だって、これ多分福田さんのオリジナルだよ。刻印もアルファベットでFUKUDAって刻まれてたし」
「え?気づいたの?彼女に内緒でアクセサリーショップに通って作ったんだ。渡す前に振られたけどね。そう、僕のオリジナルブランドってことでFUKUDA。ちゃんと見てくれたんだ。コイツも木村さんに着けてもらえて喜んでるよ」
智希はスッと木村スイの胸元に光ダイヤに右手の人差し指で少し触れる。麻衣子が隣でフリーズしているように感じた。
俺はフツフツと煮えたぎる腹の底の熱が全身に広がらないようにグッと身体に力を込める。麻衣子にこの怒りが悟られないように静かに深呼吸をする。
今年の麻衣子の誕生日、リカに誕プレの相談をした。答えは今智希が言った内容だった。
リカは無機質な声で「アクセサリーを作れるショップがあるからそこでダイヤのネックレスでも作ってプレゼントしたらどう。麻衣子ちゃん手作りとか好きそうだから喜ぶんじゃない?」と言った。俺は麻衣子のために休みの時間を潰してアクセサリーを作る気にはならず、紹介してもらったその店で一点もののダイヤのネックレスを買ってプレゼントした。一点ものだった理由は、買う人が皆何らかの手を加えるからだった。何も手を加えていない俺が送ったネックレスは正確には一点ものとは言えないのだけど、そんな手作りのアクセサリーショップで購入する人間は周りにはいないと思っていた。だから、自信をもって麻衣子に「一点もののダイヤのネックレスだ」とプレゼントしたのだ。
同じ店を偶然知ってる?そんな確率は低い。では、なぜ店が被ったのか…。そんなの決まっている。
智希とリカは絶対に接点がある。
学会が一緒でもない二人は、どこかでこっそり会っていたりするのだ。俺は息をするのも忘れていた。一瞬隣の麻衣子の存在さえ忘れて智希を問いただそうと立ち上がってしまった。
ガタン、と大きな音がして椅子が倒れる。
突然立ち上がった俺に驚いてテーブルを囲む三人以外もその店にいる全員が俺を見た。好奇な視線に晒されて我に帰る。麻衣子が怪訝な顔をして「どうしたの」と聞いてきた。俺は慌てて言い訳を考える。
「木村さんを外まで送ってくるよ。帰るって言ってから随分時間が経ってるし、注文しないのは店に悪いだろ」
俺は店員が椅子を起こしてくれるのを横目で見ながら、木村スイに視線を移した。
「木村さん、外まで送るから」
「あ、はい」
支離滅裂気味の俺の提案に、木村スイは素直に頷く。木村は麻衣子と智希に別れをつげ俺の後ろをついて来ていた。麻衣子が今度は不安な顔で俺と木村スイを見ている。俺はその視線を無視して木村スイを店外に連れて出た。
「伊藤先生、今日はありがとうございました」
木村スイがお礼を言い深々と頭を下げる。そして、頭を上げた時にソッと囁いた。
「さっき福田さんに嫉妬したんですか?松本さんと福田さんの関係を疑ってますか?」
俺は一瞬何のことかさっぱり分からなかった。日本語として聞けていなかったかもしれない。俺が何も反応できないでいると、木村スイは今まで見たことのない女の顔をして笑った。
俺は一瞬で理解した。目の前の女は印象の薄い女に擬態していただけなのだ。これが本来の木村スイという女の顔なのだとハッキリとわかる程、その顔は自然で艶やかだった。時々上司に連れられていく高級ラウンジのママよりも妖しげな笑顔。俺は言葉の意味を考えるよりも早くその女から離れなければと本能で感じ取った。俺の体が動くより前にその妖艶な笑みは消え去り、自分が見たものは幻だったのではないかと思えるほど平凡で印象の薄い女の笑顔がそこにあった。
木村スイはペコリと一礼した後、駐車場から消えていた。俺は木村スイの残した言葉と一瞬見せた本性に心底震えていた。
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