3 足音
リカが初めて木村スイに興味を示した日から2年程何事もなく過ぎた。相変わらず、リカとは時々ビジネスホテルで会っては体を重ねている。そのお陰で俺は麻衣子に優しくすることができる。嫉妬させないゲームも順調に攻略中だ。それでも麻衣子は、年に1回何かに託(かこつ)けて嫉妬全開で怒ることがあるが、宥め方も攻略している俺はいつも麻衣子が望む言葉を紡ぎ抱きしめた。
大きく変わったことは、人事異動で麻衣子も木村スイも外科病棟に移動してきたことだ。
麻衣子との交際はいまだに病院には隠しているつもりだ。麻衣子にも隠すようにお願いしている。病棟が同じになると勤務時間も顔を合わすことになる。勤務中は他のスタッフと同じように接する必要があるが、それが続くと麻衣子がキレる。もの分かりの良い女だと思っていたが、どうも嫉妬心が強い。それを勤務病棟が一緒になってから感じずにはいられなかった。
ナースステーションの窓から丸くなった月が見えていた。今日は何故か麻衣子と木村スイが夜勤で、俺が当直だ。ナースステーションから聞こえる電子音と病棟の静けさのコントラスト。電子音が大きく響くほどに、病棟の静けさが腹の底に沈んでいくようだ。一方で、麻衣子の顔がキラキラと輝き、大音量で俺の心に訴えてくる。「ねぇ、今日はちょっとプライベートな話をしようよ。木村さんとはなんでもないんでしょう。ねぇ、ねぇ」そんな声が聞こえてきそうだ。バカなことを言ってはいけない。意外に患者はナースステーションのことを知っていて、誰かと誰かが付き合っているとか、医師と看護師の不倫とかそんなウワサが後をたたない。ここでバレたら病院内で筒抜けになってしまう。別段、不倫をしている訳ではないから、バレても良いのだけど、看護師の世界は色々と面倒だ。仕事がしにくくなることは避けたかった。
消灯を過ぎ、病棟では、記録の時間が始まる。看護師も2交代制のため、看護スタッフ三人以上での夜勤だ。今日はオベのない日。三人体制での夜勤。麻衣子と木村スイ、それからもう一人は四十代に差し掛かるとても出来る看護師だ。
麻衣子も木村スイも今年移動になったばかりだ。急性期も慢性期も大変な病棟ではあるが、やはり外科は勝手が違う。しかも循環器となると常にモニターを睨みつけ、異変があればすぐに俺たち医師に報告が必要になる。俺たちも何もなければ医局で過ごすが、患者の対応や記録は病棟で行うことになる。夜勤は本当にその日による。忙しければ、とてつもなく忙しく、休む間もない。暇な時は仮眠がしっかり取れるし、日勤の時よりもプライベートな話に花が咲く。
今夜は静かだ。どちらかというと落ち着いた夜勤。
俺は心の中で「麻衣子が限界かな。もう病院の人間に言っても良いか。でも、他の看護師が面倒なんだよなぁ」と呟いていた。こう見えて、割と人気のある医師の一人だ。とりあえず、彼女がいることは言っているが、それが同じ病棟の看護師となると病院中のニュースになりかねない。どうしたもんか。
悩みながら電子カルテに入力をしている横からベテラン看護師の声が飛んできた。
「子供の名前何がいいと思う?」
俺は沈黙を破ったその声の主を見る。化粧された顔の口の周りと目の周りに細かいシワのある彼女の顔は割と整っている。彫りの深いその顔はリカを連想させた。
「木村さんの名前って可愛いよね。スイって。林さんの名前も麻衣子で可愛い。多分、女の子なんだよね。何が良いかな」
俺は声の主のお腹をそっと盗み見た。膨らんでいるようには思えないし、こんな過酷な仕事をしていて母体にいいはずがない。俺の視線にその場にいた麻衣子も木村スイも声を発したベテラン看護師も気づいて、三人で吹き出した。
「しん、あ、伊藤先生、なんか勘違いしてますよ」
麻衣子が真司くんと俺のことを呼びそうになって、改めて苗字で先生とつけて呼び直した。もちろん、ベテラン看護師も木村スイも気づいているようだった。なんとなく、空気が変わった気がする。サバサバしたベテラン看護師は、「あーー」と声を発した後で、続けた。
「伊藤先生、林さん。この際だから言っておくけど、なんとなくみんな気づいてるから。林さんなんて、隠しきれてないし。伊藤先生もなんだかんだと分かるよ。ただ、あからさまなのはだめだけど、隠そうとしなくていいんじゃない?」
俺は心臓が飛び出そうなほどびっくりした。顔にもその驚きが出ていたかもしれない。無意識にゴクリと生唾を飲んだ。それまで、おしゃべりと共に響いていたキーボードを叩く音が消え、一瞬、心電図の電子音だけが響く。
麻衣子がこちらを見ている。木村スイが最初に声を発した。
「高橋さん、突然言うから二人とも固まってしまってますよ。ズバッと思ってること言われるのは高橋さんのいいところではありますが…」
その声は落ち着いている。木村スイが患者のこと以外で話をしているのを初めて見た気がした。ベテラン看護師の高橋さんは真剣な顔で「でも、もういいじゃない?隠してても滲み出るなら隠さない方がよっぽどいいと思うよ」と俺と麻衣子を交互に見た。麻衣子がチラチラと俺を見る。俺は覚悟を決め、高橋さんの言葉を返す。
「そんなに私たちの関係は分かりますか?」
高橋さんは少し肩の力を抜いて「良かった」と呟いた。
「分かるわよ。個人病院の中のことよ。大学病院や総合病院ならいざ知らず、こんな狭い中で、しかも医療職の職場なんて家族よりも長く一緒にいるような存在だし、変化には敏感な職種なのよ。わからない訳がないのよ」
俺は小さく息を吐く。確かに言われた通りな気がした。それでも随分と気をつけていたはずだ。知らず眉間に皺がよっていたようだ。
「伊藤先生、怖い顔してるよ。なんでそんなに知られたくなかったの?結婚とか考えてないからとか?先生に限って二股とかではないよね?」
高橋さんが心電図のチェックのために移動しながら俺の背中をバンと叩いた。俺はチラッと麻衣子を見る。麻衣子は高橋さんの質問に反応して少しムッとした顔をしていた。ナースステーションには電子カルテのキーボードを叩く音と心電図の音だけがしばらく流れた。俺は黙って麻衣子に向けて顔を横に振った。麻衣子の目が本当に?と疑問符だらけだ。俺は意を決して麻衣子を見ながら声を出した。
「そうなんです。私と林さんはお付き合いをしてます。結婚はいずれはと思っていますし、二股なんて滅相もないです。仕事に支障が出ることを考えて今まで隠してたんです」
麻衣子の顔が綻(ほころ)んだ。高橋さんと木村スイがこちらを向く。高橋さんが何度も頷いていた。そして、麻衣子を見て俺に向けた笑顔よりももっと深い笑顔を刻み何度も頷く。俺は、麻衣子が高橋さんに何か相談していたなと思い至ったが、後の祭りだ。
「それにしても今日はナースコールなりませんね」
木村スイが頷きあっている高橋さんと麻衣子に構わず、仕事のことを呟いた。高橋さんがその声に「本当ね、ちゃんと話ができる時間があって良かったわ」と返す。慌てて麻衣子が人差し指を口の前に置いた。俺が見てることに気づいた麻衣子が俺に舌を少し出してウインクして見せた。
俺はもう一度息を少し吐いた。時計を見ると後三十分で今日が終わる。看護師三人は何も言わず、予定していた通りに動き出す。多分、0時の巡回にまわるのだろう。
俺は看護師三人を席についたまま見送り、背もたれにもたれ大きく伸びをした。後一時間で記録を終わらせて医局に帰りたい。明日の朝は、麻衣子と一緒に当直明けだ。ここ最近、リカに会えてない気がする。リカと最後に会ったのはいつだったか。1ヶ月ほど前だ。これじゃあ、ストレスが溜まってしまう。俺は記録を書きながら、次にリカに会えるのはいつだったか考える。麻衣子との体の相性はそこそこだ。なるべく優しく、麻衣子に合わせて、麻衣子の望むようにするセックス。リカとは何も考えずただ性行為に集中する。当たり前だが、リカとするセックスの方が気持ちがいい。他にもストレス解消法がないわけではないが、リカとのセックスが一番ストレス解消になる。
俺はつい一時間ほど前にこの場で繰り広げられた馬鹿らしい茶番を思い返す。ベテラン看護師は医師にとっては先輩医師よりも気を遣う相手だ。彼や彼女たちとの関係で仕事のしやすさが変わってくる。今回のあの茶番は本当に面倒だった。高橋さんは「結婚」という言葉も使っていた。結婚を匂わすように麻衣子に言われたのだろうか?俺はもう一度ため息をつく。
「伊藤先生、そんなに私とのこと病院に知られるの嫌だったの?」
巡回を終えて帰ってきた麻衣子が俺の後ろに立っていた。俺は電子カルテをバタンと閉じる。
「いや、いい機会だったよ。でも、高橋さんが知ってたのは麻衣子が言ったからじゃないか?職場には秘密にしようって二人で決めたことだろう?」
「違うよ、高橋さんには知られてて、何回か質問されてたの。木村さんも分かってたみたいだよ、噂こそされてなかったけど、時間の問題だったみたい」
俺は麻衣子を真っ直ぐに見る。麻衣子も俺を見ている。ここが病棟でなく、お互いがユニホームを着ていなければこのままキスしたりもするが、ここは職場。
ガタン、カラカラ、カラカラ。
俺たちは音がした方に顔を向ける。木村スイがしゃがんで落ちた体温計を拾っていた。
「大丈夫?」
麻衣子が近づき腰を屈めて一緒に拾う。二人はワゴンの下の段に落ちた体温計を乗せた。
「ありがとう」
木村スイが小さくお礼を言った。そのうちに高橋さんも帰ってきた。またナースステーションで記録が始まる。記録を終えた順に仮眠に入るのだろう。俺も医局に帰って寝れるうちに寝とこう。そう思ってナースステーションを出ようとしてる俺を高橋さんが呼び止めた。
「そうだった。先生、うちの孫の名前何がいいと思う?今日の夜勤暇だったら考えようと思ってたのに先生と林さんのことで時間とっちゃったから、先生も少しだけ考えていってくれない?」
俺は内心「はぁ?迷惑かけられたのは俺の方なんだけど!」と思いつつ、2、3個適当に名前を言えばいいだろうと頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけですよ」
俺は立ったまま考える。
木村スイが「女の子なんですよね?」と確認している。看護師三人は電子カルテをカチカチしながら、取り止めもなく話をする。
俺は、チラリと木村スイを見た。この三人は仲が良いのかもしれない。木村スイと同じ日に当直をしたことは過去にも何度かあるし、日勤でも一緒になることがある。けれど、こんな風に仕事とは関係ない話をしているところを見たことがない。俺が知らないだけなのだろうが、それでもとても珍しく感じた。
俺の視線に麻衣子が気付く。麻衣子は慌てて「木村さんって子供いましたよね?なんて名前なんですか?」と木村スイが子持ちであることを強調する。高橋さんも気づいたのだろう。麻衣子のその言葉に少しだけ顔を歪めた。
当の木村スイはニコニコして答える。
「うちの子ですか?うちの子は真実って書いてまみって読みます」
麻衣子も俺も目を見開いた。木村スイの笑顔を初めて見たからだ。高橋さんは目を細めて口元を緩めた。
「真実っていい名前よね?木村さんもスイって可愛いわ」
「珍しい名前で憧れる。麻衣子ってどこにでもあるじゃない?スイってなかなかない名前だよね?」
木村スイは静かに微笑んだ。俺は妹のことを頭に思い浮かべる。病院でプライベートな話はなるべくしたくないから言葉にはしない。俺の十個年の離れた妹が「すい」だ。彗星の彗って漢字を使うから木村スイのようにカタカナではないけれど、同じ音の名前。木村スイのことをなぜかフルネームで読んでしまうのはスイという名前のせいなのかもしれない。
「うーん。でも、今まで生きてきて、同じ名前の人が二人ぐらいいたと思います。妹が同じ名前だよとか、友達が同じ名前なんだとか。話を聞いただけで、実際に同じ名前の人と会ったことはないけど」
俺は木村スイの言葉にぎくりとなる。俺の心が読めたわけでもないだろうに、今俺が妹のことを考えていたことを言い当てられたように感じた。俺は木村スイの言動に背中に冷たい水滴を一雫垂らされたような薄寒さを覚えた。
俺は首を大きく振って背中の水滴を振り落とすように勢いよく伸びをした。俺の行動に麻衣子も高橋さんも驚いていた。木村スイだけが何も感じてないような顔をしてカルテに向かっている。
「高橋さん、私は親がつけるのがいいと思います。親が子に送る初めてのプレゼントが名前だから…。だから、祖母の高橋さんが口を出したらダメな気がします。というわけで、私はちょっと今のうちに仮眠をとりに医局に帰ります」
俺はもう振り返らなかった。口に出したのは本心だ。嘘偽りのない言葉。ただ、なんとなく、あれ以上あの場にいるのは苦痛だった。
その日の夜勤は明け方から忙しくなった。急変はなかったものの、明け方前から患者が起き出し、各病棟一名ずつ転倒患者がでてしまった。救急の方にも患者が何人か搬送され、当直の勤務が終わったのが十一時を回っていた。俺は高くなった太陽の光に目をしばしばさせながら麻衣子の部屋にそのまま直行した。
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