2 影

「真司くん、真司くん、木村さんってああ見えて子持ちなんだって。しかも未婚の母らしいよ」

 麻衣子が俺に彼女の話をしたのは、リカがその女の顔を見て驚いたあの日から数日後のことだ。なぜ、突然に麻衣子がその女、木村スイの話を始めたのかは、定かではない。

 俺は訝しげに麻衣子に視線をやり、「木村さんって?」と素知らぬフリをした。

「えー?木村さんだよ、こないだ2階病棟で真司くん木村さんに話かけてたじゃん」

 麻衣子はなんでもないような顔をして、二日前のことを持ち出してきた。リカの興味をひく女がどんな人間なのか気になって、患者の容態を聞く素振りでその女に近付いた。それが麻衣子にバレている。麻衣子は頭がいいし、察しもいい。けれど、職場以外で俺が必要以上に女に構うと、途端にめんどくさい女に変わる。仕事に託けて木村スイに近づいたにも関わらずただの仕事だとは思わなかったのだろう。

 俺は麻衣子に分かるように大きく息を吐いた。

「2階病棟の看護師か…。あぁ、あの目立たない感じの…。って、仕事だろ?」

 俺は、麻衣子に木村スイという女を特定してる訳ではないことをアピールする。麻衣子も、俺に分かるようにため息をついた。

「分かった。あくまでもアレは仕事なんだね?そういうことにしておいて上げる。でも、そういう訳で、彼女は子持ちだからね」

 俺は麻衣子の肩を寄せて自分の腕の中に抱きしめ、背中をポンポンと叩く。

「それにしても珍しいね、麻衣子が仕事中の俺の心配するなんて」

 そうなのだ。飲み会や病院外での女性への接触は例え仲の良い看護師でも女医でも、患者でさえ、後からチクチクと嫌味を言う麻衣子だ。しかし、基本仕事においてはそんなことをしたことがない。医療がチームワークの必要な職場だと理解しているからだろうし、職場の人間関係は円滑な方がいいと思っているからだろうと思う。俺も仕事に関しては同じ考えだったから、同じ職場の人間と恋人になるつもりはなかった。職場の人間と恋愛して拗れて空気が悪くなったら本当にめんどくさい。

 麻衣子は仕事とプライベートを分けることのできる女だったし、何より外見が好みだった。麻衣子の方からアプローチされ、悪い気はしなかった。リカに相談したが、「いいんじゃない」と言われただけだ。結局、その外見と女性らしい性格に惹かれ恋人になった。当初は良かった。ただ、思った以上に嫉妬深い女で、時々別れたくなる。それもリカに相談した。リカは無表情な顔で抑揚のない言葉を発した。

「絶対に私みたいなセフレがいることを気付かせないゲームだと思ったらどう?まぁ私だけじゃなくて、嫉妬させないゲーム。真司くん好きでしょ、そういうゲーム感覚なの」

 抑揚のないその話し方ももうすでに耳に馴染んでしまって、ある意味とても居心地よく聞こえる。リカのその言葉で俄然やる気になってしまった。で、今は麻衣子の嫉妬心を煽らないゲームには成功している。成功しているはずだったのに、今回は何を間違えたのだろう。

「経過を聞いてた患者、3階病棟では私の受け持ちで、担当医は竹下先生だったし、真司くんの専門じゃない疾患だった。それに、偶然その場を見ちゃったんだけど、真司くんの顔がちょっと仕事の顔をしてないように見えて…。あと…、あとね、木村さんの真司くん見る目がなんかちょっと嫌だったの」

 麻衣子が可愛い甘えた声で怒っていた理由を教えてくれる。俺の顔が仕事の顔をしてなかったって言われても、病院にいる時は麻衣子の前でも仕事の顔をしてるはずだ。まぁ、担当の患者じゃなかったことと俺の専門の疾患じゃなかったことは大きい疑い要因になる。それは失敗だったと思った。何より、急性期病棟の担当が麻衣子だったことに気付かなかったのも敗因の一つだ。

 俺はゲームを攻略するように、麻衣子の話と自分の行動を分析する。一つ、引っかかるのは、木村スイの目だ。それは、俺には分からなかった。俺を見る目が嫌だったのだとすれば、リカとあの女の関係において何かあるのかもしれない。麻衣子に嫉妬させないゲームの敗因の何パーセントかは俺ではなく、その女にあったことになる。俺はますますその女に興味を惹かれるようになった。

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