1 違和感
俺は当直明けのハイになった気分のままにリカに連絡した。
昨晩は、なぜか患者の容態が急変する事態が続き、ろくに仮眠も取れなかった。なんとかみな急変で命を落とすことはなく、朝を迎えることが出来た。寝てないと無駄に気分が高揚してしまう。普段ならこのまま朝の診察に入るところだが、今日は休診日だ。今日一日めったにない休み。とはいえ、今日の恋人の予定はこれから日勤だ。担当の患者のいない病棟の看護師をしているから、顔は見ていない。けれど、今頃、優しい笑顔で患者に微笑んでいることだろう。この気分のまま家に帰ったところで眠れはしない。だからこそ、リカに連絡をとっている。確か、リカも当直明けのはずだ。
携帯が震えた。俺は画面を見る。そこには短く「いつものところで」とメッセージが見えた。俺はそれを確認し、既読がついたところでメッセージを削除する。うっかり、恋人に見つかるとめんどくさい。いくらハイになっているからと言ってもそこは抜かりがない。
リカは学生時代から続く体の関係込みの友人だ。彼女は他に好きな人がいるらしい。決して俺に本気にはならない彼女との体の相性はそこそこで、なんでも話せる友人として四年の付き合いになる。その間に2度ほと恋人は変わったけれど、リカとの関係は変わらない。
学生の頃はラブホテルを利用する回数が多かったけれど、仕事が始まってビジネスホテルで会うことも増えた。「自宅に帰りたくなくてホテルに泊まっただけだ」という言い訳が今の彼女には使えるから、尚一層、ホテルを使うことが増えた。今の恋人の麻衣子は同じ病院の看護師で、とても物分かりもよく体の相性もいい。何よりも一緒に居て落ち着く。なんとなく彼女とは結婚するだろうと思っている。だからこそ、リカとの関係を知られたくない。今まで以上に慎重に行動するようになった。
いつもリカと落ち合うビジネスホテルは駅の近くにある。リカの勤務する病院と俺の勤務する病院の丁度中間に当たる。お互いの家からも実は近い。麻衣子と付き合う前は割と家にも行き来していた。が、彼女に気づかれる恐れがあるため、それはやめた。過去二度リカと関係を続けながら付き合った恋人の時は、そんなこと考えもしなかった。そう考えると麻衣子のことがとても好きなのだと思う。きっと、リカとの関係を知っている人間がいれば、リカとの関係を切ってないだろうと糾弾されるかもしれない。リカは体の関係込みの友人だ。友人と恋人は違う。恋人には優しくしたいし、格好良くいたい。それは結婚してもだ。俺は親父がお袋の前でだらしない格好をしているのを見たことがない。昔、親父に聞いたことがある。「なんで他のお父さんみたいにダラーってしてないの?家の中では皆、お父さんもお母さんもだらしない格好をしてるって言ってたよ」と。すると親父は言った。「母さんの前でだらしない格好をしたくないんだ。母さんにはいつでもかっこいい父さんで居たいんだよ」と。実際、十歳下に妹がいる。きっと今でも夜の営みが続いているんだろうと思う。普通は親のそんなこと想像するのも気持ちが悪いものなんだろうが、うちの親は両親ともに見た目が綺麗で、ずっと恋人同士のような関係だ。そんな二人の夜の営みについて考えても別に気持ち悪さは感じない。
俺にとってリカは友人で格好つける相手ではない。リカとの関係がないと、麻衣子との良好な関係を続けていけるのか疑問に思う。それほど、リカは俺にとってなくてはならない友人だ。もしかしたら、親父もそんな人間がいたのかもしれない。今もいるのかもしれない。その時、お袋はどんな顔をするだろうか?
お袋の哀しげな顔が脳裏に浮かび、沈んだ。それが、麻衣子の顔にとって変わり、再び浮かび上がる。そんな、哀しい顔をさせたいわけじゃないだ。俺は心で呟きながら、目を開けた。
「起きたの?」
リカが彫りの深い整った顔立ちに感情を乗せずに声を発する。リカは怖いほどに無表情だ。学生の頃からで、とても冷たい人間に見られがちだ。笑顔もない代わりに嫌な顔もしない。淡々と行われるコミュニケーションが今ではとても居心地がいい。とはいえ、リカに感情がないわけではない。実は心の中に熱い想いを秘めている。
俺はリカの顔に笑顔を向ける。
「どれくらい寝てた?」
「二時間くらいよ。今1時」
俺は、ベッドサイドのデジタル時計に映る1332の数字を目で追った。
「リカは寝ないの?」俺の問いにリカの表情がフッと緩む。
「真司くんは昨日寝てないんでしょう。私は二時間仮眠できたからね。それに、これから実家に帰るの。寝るより大事なことがあるから」
俺はリカの表情を唯一緩めるリカの家族を思った。リカにとって一番大切なものは家族だ。それなら、実家で暮らせばいいのにと思うが、彼女は一人暮らしを始めた。「真司くんも実家が近いのに一人暮らししてるじゃない?私だった自立しないとね」と珍しく笑ったから、その時の会話はよく覚えている。リカが一人暮らしを始めた当初が一番お互いの家に行き来した時期だ。無表情の顔の下で、とても淋しがりの女なのだ。そのことを知っているのが自分だけだと思うと優越感が刺激された。決して自分のものにならないし、しようとも思わないけれど、自分しか知らない顔をもつ彼女はとても可愛い存在だ。
俺は携帯の画面に触れ、画面に明かりをつける。きっと麻衣子から何かしら連絡が入っているはずだ。携帯の画面に幾人もの知った顔が現れる。そうだった、数日前に麻衣子に病院であったお花見の写真を待ち受けにされたのだ。二人が付き合っていることは病院では内緒にしている。だから、自分の写真を待ち受けにして欲しい麻衣子のくにくの策だ。
もうこの待ち受けになって二日経つけど、知り合いの顔が並んだその待ち受け画面に慣れない。小ぶりの胸を顕(あらわ)にしたままのリカが俺の携帯に顔を寄せた。珍しいこともあるものだ。
「ねぇ、この写真は?」
「あぁ、これは病院の花見の時の写真。麻衣子が待ち受けにしたんだ」
俺は麻衣子を指さした。「これが彼女の麻衣子」と呟くけれど、どうもリカの関心は別のところにあるようだった。リカがジッと携帯を覗きこんでいると振動と共に麻衣子からのメッセージが短く画面に現れる。「今日、すっごい忙しい」可愛い絵文字付きだ。そのメッセージに驚いたような顔をしながらリカはそのメッセージの上に小さく顔が映っている女を指さす。
「ねぇ、彼女は?」
俺はリカの指さした女を見た。あまり覚えがない。いや、一度だけ担当した患者が同じだったような気がする。多分、慢性期病棟の看護師だったはずだ。俺は首を捻る。リカが答えるのを待っている。
「確証はないけど、多分慢性期病棟の看護師だと思う」
リカはなんともいえない顔をした。本当に不思議な顔だった。笑っているような泣いているような複雑な顔。感情をあまり面に出さない彼女の大きな感情の揺れに俺の方も目を見開いた。
「リカの知ってる人?」
俺の問いに、リカは微かに口の端を上げて笑って見せた。そして、その話はもう終わりと言わんばかりに、「もう時間になるから、私シャワー使うね」と立ち上がる。
一糸纏わぬリカの背中は無駄な贅肉もなく、適度に引き締まり美しい。その背中がこれ以上の会話を拒否していた。俺はそのままリカを見送り、麻衣子のメッセージに返信をした後で、元の写真を確認する。麻衣子が中心にいる写真。俺も脇の方に写っている。俺の座っていた場所からそう遠くない場所にいたその彼女の顔を拡大してじっくり見てみた。特徴のない顔だ。リカの全てを知っているわけではない。知りたいわけでもない。それでもリカにあんな顔をさせた彼女に少し興味が湧いた。
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