4-5

「待ってよお」

 兄のお下がりで貰ったが膝に引っかかるのをうっとおしく思いながら、僕は前を歩く女の子の背中を追いかける。ここ数日の嵐でぬかるんだ地面に足が取られて、中々先に進めない。それにこの墨汁のような雨で真っ黒になった道や山のせいで、視界もろくに利いていない。

 僕は躓きながら、もう一度声をかける。

「ねえね、待ってよお」

 その声が聞こえたのか、ねえね───姉は、足を止めて振り返った。

 真っ白な着物に身を包んだおかっぱ頭の姉は、まるでどこかに嫁ぎにでも行くかのような装いだ。だけどその白無垢も、今では雨に汚れて黒く染まってしまっている。

「じいじ、家にいなさいと言ったでしょう」

「その呼び方やめてよお」

 次男だから「じいじ」という、その安直な呼び名が僕は嫌いだった。まるで年寄りみたいじゃないか。

 半べそをかきながら、僕は姉の下まで追いついた。 

「僕も一緒に行くよお」

「駄目です。あなたに何かあったら溜井戸の家はどうなるの」

 僕より三つも年上なのにあまり身長の変わらない姉は、しかし強い意思を持って言った。

「にいにが死んで、もおかしくなってしまった。お家には、と、私と、じいじの三人だけ。跡継ぎの男の子はもうあなたしかいないんですよ」

 数日前に嵐に巻き込まれて、バラバラになって空から降ってきた兄。そしてそんな兄を見た父が、訳のわからないことを叫びながら山奥に走り去ってしまった姿を思い出し、目と鼻の奥がキュッと熱くなる。

 涙をこらえて顔をしかめる僕に姉は言う。

「あのハイカラな異人さんが言っていたでしょう。誰かがみやげさまのお供犠くぎさんになれば、この嵐は終わるって。みやげさまがお静まりくだされば、この黒い雨も止んで全て元通りになるんです」

 そして言う。

「私がお供犠さんになりますから。ですから、あなたは来てはいけません」

 姉の言葉は、六歳になったばかりの僕には難しく、その言葉の意味も断片的にしか分からない。だけど姉が僕の下を離れて、どこか遠くに行こうとしていることだけは、幼い僕にもはっきりと理解できた。

 それを思うと、胸の内で何かが暴れ狂っているような嫌な気持ちがした。

「ねえね、行かないでよお!」

 しゃくり上げながら、それだけを言った。決壊した感情が涙となって目から溢れ出して、それ以上は何も言えなくなった。

 姉は少し困ったような顔をして、僕の涙を優しく拭う。

「ほら、男の子なんですから、泣いちゃ駄目ですよ」

 そう言って、姉は再び歩き出した。その場に立ち尽くして泣く僕を置いて。

 そして姉は去り際に言った。

「じいじ、かかとお家をよろしくね」

 そんな言葉なんて聞きたくなかった。僕は感情を爆発させながら、涙でぼやけた姉の後ろ姿に向かって大声で叫んだ。


「じいじって言うなあ‼」


 最後に伝えたかったのはこんな言葉じゃなかったはずだ。だけど僕はそれ以外に言える言葉を見つけられなかった。

 姉は止まらなかった。振り返ることもなかった。

 僕は、誰もいなくなった道に取り残されたことが悲しく、そして姉がどこに行ってしまったのかも分からず、ぐちゃぐちゃに乱れた心を引き摺って家へ帰った。

 気付けば嵐は過ぎ去り、黒い雨も、黒く染まった地面も、何事もなかったかのように消えてしまっていた。


         *


 あの時の事を僕は何度思い出しただろう。

 もっと言うべきことがあったんじゃないか、僕に出来ることがあったんじゃないか。そんなことを幾度となく夢想する。いつか姉が帰ってくるんじゃないかと家を守り、どこかに姉に会う方法があるんじゃないかと学問に打ち込んだ。そんなはずがないと頭では分かっていたのに、もしかしたらという思いがいつも僕の中にあった。

 だから僕はここに居続けた。この家と、この土地に拘り続けた。

 意味のない執着だと何度も自分に言い聞かせた。母も、妻も旅立ったこの家で一人、帰るはずのない家族を待ち続けるなど無意味だと。

 それでも僕は思い続けた。

 もう一度、姉に会えたなら僕は何と言うのだろう。姉は僕に何と言ってくれるのだろう、と。

 押し入れに仕舞い込んだ、姉の遺影を眺めながら、そんな叶うはずのない夢を見て。


「都さん! どこですか!」


 半壊した家の瓦礫を押しのけながら僕は走る。痛む体を引き摺りながら、かつて姉を追ったこの道を。

「境井さん! 本影さん!」

 あの子たちもこの道を通ったはずだ。何があったのかは分からないが、先ほどの空が落ちてきたかのような衝撃に巻き込まれていないかが心配だった。

 どうか無事でいてほしかった。恐れに負けて自分の殻に閉じこもった僕と違い、友達を助けるために動いてくれたあの子たちに。

「……!」

 辿り着いた先は、隕石が墜落したかのように巨大なクレーターとなっていた。周囲の木々が放射状に薙ぎ倒されて、あちこちに痛々しい破壊の跡が残っている。

 そして、そのクレーターの中心に横たわる、三人の少女たちの姿があった。

「都さん! みなさん!」

 慌てて駆け寄る。足元が滑った。何度も転んで泥まみれになりながら、しがみつくように意識のない少女たちの手を取った。

 脈はある。呼吸もしている。目立った怪我もない。

 安心して息を吐く。息を吐いて、僕は姉を見る。

「…………」

 小さな手、小さな体、小さな顔。昔の姿のまま変わらない姉に、僕は一体何が出来たのだろう。

 家を守るとか、帰りを待ち続けるとか、僕にはそんなことしか出来なかった。浦島太郎の家族のように、ただ同じところで生活を続け、帰る当てのない身内を思い続けていただけじゃないか。

 そんなことを姉は本当に望んでいたのだろうか。いいや、そんなはずはない。僕自身とっくに気が付いていた。こんなのはただの自己満足だと。ただ姉を忘れられなくて、いなくなった姉に執着して、そこから逃げる勇気もなく、ただ立ち止まり続けただけの話だ。

 結局、あの時のように僕は何も出来なかった。姉を助けたのは僕ではなく、この子たちだ。僕はただ怯えて許しを請うことしか出来なかった。そんな僕が今更なにをしてやれると言うのだろう。

 姉弟として話すことも叶わず、あの時に言いたかった言葉を伝えることもできず、ただ姉の行く末を願うことしかできないのだろうか。

「…………ん」

 姉のまつ毛が小さく動いた。

「都さん……?」

 ゆっくりと瞼が開き、おぼろげな黒い瞳が僕を見る。焦点が定まっていないのか、ぼんやりとした様子で姉は口を開く。

「…………」

 小さな声。

「え?」

 聞き違いだと思った。

 だってそれは僕が言いたかったこと、帰ってきた姉に伝えたかった言葉。そして帰ってきた姉に言ってもらいたかった言葉。

 叶うはずがないと、そう思っていたのに。

 唇を震わせる僕に、姉はもう一度囁いた。


「じいじ、無事でいてくれてよかった」


 空はどこまでも青く、澄んでいた。

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