4-4
雨が降る。世界を飲み込む黒雨が。
雨は大地を塗り潰し、触れる全てを自分色へと染め上げる。闇よりも深く、影よりも濃く、光すら飲み込む
くすくす、くすくす。
そんな世界に小さく響く笑い声。しかし声の主の姿はない。誰も笑ってなどいないはずの空間で、だが確かにそれは笑っていた。
雨音に混じって耳に響くそれが、どこから聞こえてくるのか理解できる者は誰もいない。もしそれを理解できる者がいるのならば、その者は深淵を知る者か、あるいは狂人のどちらかだろう。
だがその両者に、果たしてどれほどの違いがあると言えるのだろうか。
──────カシャ。
まばらな音に支配された空間に新たな音が加わった。
カシャ、カシャ。
カメラの音。
二度、三度と続くそれは、細い耳鳴りのような音を立てながら、時折、鋭い閃光を走らせて闇を照らし出し、目には見えない暗闇を吸い込むように、網膜レンズに焼き付いた景色をマイクロチップに記録していた。
その行為は短い間隔を空けながら何度も繰り返される。
そして、カメラの主が粗方の記録を納めたのか、ファインダーに密着させていた顔を上げた時、背後から足音が聞こえてきた。
「
「…………」
カメラの主───真幸は、感情のない瞳を細めて振り返る。そこには髪と服から黒い水を滴らせたマキと七尾が立っていた。
どうしてここに、と言いたげに二人の少女は目を丸くする。
「……………………」
無言で向き合う真幸と、ずぶ濡れの少女たち。
しかしどういうわけか、真幸の体はこの悪天候にありながら全くと言っていいほど濡れていない。それどころか、雨は真幸の体を通り抜けて真っ直ぐに地面に落ちていた。まるでそこには誰もいないとでも言うように。
沈黙の中、長い雨音だけが響く。
「……ようやく来ましたか」
先に沈黙を破ったのは、真幸。
「真幸さん、なんで……」
あらゆる疑問を含みながらマキは問いかける。しかし真幸は質問には答えず、静かに指を差した。
「都さんならそこにいますよ」
「!」
そこは井戸がある場所。いや、あったと思われる場所だった。今やそこは真っ黒な水が壊れた配水管のように吹き出しており、溜まった水が池となり、とぐろのような渦をうねらせながら、空に浮かぶ黒雲に吸い上げられていた。
これが黒い雨の正体だと、誰もが直感的に理解した。そしてこれこそが、都の中に潜んでいた黒い水、その元凶であると。
「都ちゃん!」
もはや絶望的とすら思える景色に向かって、マキは呼びかける。
「無駄ですよ、あなたが何をしようと彼女には届きません」
淡々と、無感動な声色で真幸は言う。まるで今、何が起こっているかを正確に把握しているような口振り。
「でも都ちゃんがいるんでしょ!?」
「ええ、ですがあなたに出来ることはありません」
肯定、続く否定。その一言に七尾が逆上する。
「うるせーよ、やってみなきゃ分かんないだろ」
ざぶん。黒く濁る池に七尾が勢いよく飛び込んだ。
「ミヤ! どこだ! 返事しろ!」
水を掻き分けながら七尾は進む。そのたびに水を吸った服がべったりと肌に張り付く。まるで重たい鎖が体に絡まるようだ。七尾は腰まで水に浸かりながら、なんとか渦に巻き込まれないよう、都を探す。だが辺りには墨を溶かしたような黒い水以外は、何もない。
「くそっ!」
七尾は焦りをそのままに更に深みへと足を踏み入れる。だがそれが、ギリギリのバランスで保っていた重心を崩すこととなった。
「しまっ……!」
不規則にうねる波に足を取られ、七尾は体勢を崩す。そして、ずるっ、と体重の乗っていた軸足が刈り取られ、七尾の体が水中へと消えた。
「七尾ちゃん!」
意外なほど静かに水中に飲み込まれた七尾は、複雑に流れる渦に巻き込まれたのか、どこに行ってしまったのか分からない。しかし、断続的に聞こえる苦しげな呼吸と、バシャバシャともがく音が七尾の現状を伝えてきた。
「……ごぼっ! ………かはっ!」
さっ、とマキの顔が青くなる。
このまま自分が飛び込んで行ったって何も出来ない。だけどこのままじゃ七尾ちゃんが溺れちゃう。このままじゃ七尾ちゃんが死んじゃう。どうしよう、どうしよう、どうしたら………。
様々な思考が頭の中を駆け巡る。しかしそのどれもが、ただパニックを助長させるものでしかなかった。
「………っ! …………!」
七尾の声が段々と小さくなる。もう何秒も余裕がないことは明白だった。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!
無為に繰り返される思考。答えの出ない反芻に、マキはその場から動くことすら出来ず、ただ途切れかけの悲鳴を聞いていた。
「私も、行かなきゃ……」
錯乱した思考は、無謀な道を選択する。
私に出来ることなんて何もないかもしれない。でも私が都ちゃんを助けようなんて言ったから、七尾ちゃんが………。全部私のせいだ。今、七尾ちゃんを助けられるのは私しかいない。私がやらなきゃみんな死んじゃう。
マキは回転する渦を眺めながら、震える体で前に出る。無慈悲に廻る黒い渦は、飲み込まれたが最後、脱出不可能な蟻地獄のようだった。
もう何も考えられない。いっそ自分もこのまま水に飲み込まれてしまった方がいいんじゃないだろうか。二人を助けるという気持ちに殉じて、このまま死んでしまった方が楽になるんじゃないだろうか。
そんな短絡的な気持ちが黒い毒のように胸を埋め尽くしていく。
そうして、マキが池に足を踏み入れようとした時だった。
「わらわさんを頼ればいいじゃないですか」
「えっ?」
真幸の声。その言葉にマキは思わず振り返る。
真幸が、わらわを見ていた。
「お主、わらわが………」
目を見開いたわらわが警戒を露わにする。だが真幸は事も無げに言った。
「ええ、見えていますよ。始めから」
「!」
ありえない事だった。わらわを見ることが出来るのは、マキの紹介で『おともだち』になった者だけのはず。だがマキは真幸に対してわらわを紹介したことはおろか、話題に出したことすらないはずだ。
わらわは険しい顔で牙を剥く。目の前の女は敵か、味方か。なんの目的でここにいるのか。めまぐるしく思考が回る。
「何者じゃ、お主は───」
わらわは聞く。しかし真幸は遮るように言葉を挟んだ。
「───ほら、手遅れになってしまいますよ」
いつの間にか、七尾の声がなくなっていた。
「!」
一体いつから!? 声が聞こえなくなってもうどれだけ経った!?
「わ、わらわちゃん! お願い、なんとかして!」
思い出したように、マキがわらわに縋る。もう頼れる相手はわらわしかいなかった。
「……………………」
だが、わらわは眉間に皺を寄せて黙り込む。まるで何かを躊躇っているように固く口元を引き結ぶ。
真幸が言う。
「分かっているはずです、もう方法は一つしかないと」
「やはり……お主、わらわを知っておるな?」
わらわが再び真幸を睨む。今にも掴みかかりそうな勢いだ。
マキには分からない。真幸がどうしてわらわを見ることが出来るのかも、二人の会話にどういう意図が含まれているのかも。ただ、今はわらわが現状を打開する術を持っていることだけが全てだった
「わらわちゃん、早く! 都ちゃんと七尾ちゃんを助けて!」
涙を浮かべて袖を引くマキに、わらわは、ぎりと奥歯を噛み締めた。
「…………わかった」
わらわは観念したように首を垂れる。
「お間違えの無いように。都さんは、あちらですよ」
井戸を指差す真幸。わらわはそれを忌々しく睨みつけ、足元に溜まる水を両手で掬い上げた。
天に掲げた両手の杯から溢れた水が腕を伝って、わらわの白い肌と着物を黒く染める。そして祈りの手のように濡れた手を合わせたわらわは静かに、しかし夜道に鳴る鈴のように朗々と詠った。
「“
風が止んだ。
わらわの詞が終わるとともに吹き荒れていた風が消え、同時に殴りつけるようだった雨もぴたりと止んだ。
まるで時間が止まったかのように、世界から一切の動きが消えた。何者も身動ぎすらしない世界では、音すらも存在していないかのように感じられ、ただ耳鳴りのような無音の音だけが聞こえていた。
「…………」
マキは静止した世界の中で空を見上げる。
上空には大きく渦を巻く巨大な黒雲が、写真に映し出された惑星のような、どこか現実味のない姿を留めていた。
だが次の瞬間、
みし、
と空を軋ませて、惑星の形が乱れた。
球形を保っていた惑星は、不規則に動き回る風に散らされてその姿を縮めていく。惑星を構築していた黒雲が乱気流となって、自身の体積を削り取る細く甲高い風切り音は、身悶える嵐の断末魔のようだった。
暴れまわる凶星はやがて自重を支えきれなくなり、地球の重力に誘われる彗星となって、マキのいる地上に向かって真っ逆さまに墜落してきた。
「!」
崩壊した雨雲が大量の水の塊となって、一直線に地面に叩きつけられる。爆発のような凄まじい衝撃とともに一帯は洪水のような有様となった。
「───────────────っ‼」
マキは真っ黒な濁流に巻き込まれ、そのまま意識を失った。
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