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 道路に出来た水溜まりをバスのタイヤが跳ね上げる。

 透明だった水は、でこぼこの轍を残しながら茶色い泥水へと姿を変えた。

 そんなバスの中でマキは、座席の揺れを感じながら両手を組む。祈るようなその表情は固く、体は落ち着きなく揺れていた。

 あの惨憺たる出来事の後、警察や救急車が学校に押し寄せ、それと同時に臨時休校が発表された。大嵐の被害を免れた生徒たちは持つものも持たずに帰宅させられ、逆に被害に遭ったマキのクラスは、怪我の程度に関わらず全員が病院で検査をすることになっていた。

 だがマキと七尾は、混乱する現場のゴタゴタに紛れて学校を抜け出し、都の家へ向かうバスに乗り込んだのだった。

 あれから既に一時間。もしかすると、今頃学校ではマキと七尾と、そして都の不在で騒ぎになっているかもしれない。それを思うと、まずいことをしたという罪悪感と、後で親や先生から怒られるかもしれないという不安で胸がいっぱいになる。直近で深夜の学校に忍び込むという悪行を働いて、こっぴどく叱られた記憶もまだ新しい中で、こんなことをしでかしたのはやはりまずかったのではないか。ここに来てなお、そういった思考がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 だが、それらの不安が、都を助けることよりも優先されるとは、微塵も思わなかった。都が無事に帰ってくるのなら、後でいくら叱られることになっても構わなかった。

 それはマキと共にバスに乗り込んだ七尾も同じだった。都を守れるのならなんだってする。誰とだって戦う。自分はそのために力を蓄えてきたのだから。

 七尾はわらわに聞く。

「結局あれはなんなんだ?」

 昨日の保健室の件はマキから聞いて知っていた。その上でわらわに尋ねる。

「あの黒いのが原因なのは間違いないだろ。それがミヤの中から出てきたってことはやっぱり、ミヤの中に隠れてたってことじゃないのか?」

「それはない」

 わらわはきっぱりと言う。

「わらわの提灯は秘匿を暴く灯火じゃ。どこに隠れようと、どれほど巧妙に潜んでいようと、それらを全て照らし出す」

「でも実際、あれはミヤの中から湧いてきてるんだろ」

「それが分からんのじゃよな~」

「……役立たず」

「なにお~!?」

 狭い座席で取っ組み合いを始める、わらわと七尾。

 その横で落ち着きなく膝を揺らしていたマキが、ふと、何かに気付いたような顔をして口を開いた。

「…………都ちゃんの中から出てきたんじゃないのかも」

 その言葉に七尾が動きを止める。

「いや、中から出てきただろ。マキも見ただろ」

「あ、うん。そうなんだけど、そうじゃなくって」

「?」

 眉を顰めながら唇を尖らせる七尾。

 マキは言う。

「あの黒い水は、都ちゃんに取り憑いてるわけじゃないと思う。多分、あの水は都ちゃんの中から湧いてきてるんじゃなくて、きっと、もっと別のところにあるものなんだよ」

 言いながら、マキは考えをまとめていく。

「きっと都ちゃんは、あれを持ち運んでただけ。でもあの水はほんの少しだけか、短い時間しか都ちゃんの中には居れないから、すぐに消えちゃうんだと思う。だから、わらわちゃんが視た時はなにも無かったんだよ」

 現実的な内容ではないため、あくまで予想の範疇にすぎない。だが自分が見てきたものをまとめれば、そう解釈することは可能だった。

「でももしそうなら、あの水の大元をぶっ潰さないとダメなんじゃないのか? そんなのどうすりゃいいんだよ」

 いまいち納得しきれない様子で疑問を口にする七尾。だがマキは言う。

「わらわちゃんの灯りがあれば大丈夫だと思う。あの赤い光が当たった水は普通の水に戻ってたから、それがあれば多分なんとかなる……かも」

「かも、ってお前な……それにあれがどこから来てるかもまだ分からないだろ」

「多分、都ちゃんの家のどこかに……もしかしたらあの井戸かもしれない」

 根拠はなかった。だがマキの心の中では、きっとそうに違いないという確信があった。都の家で度々感じたあの違和感。特にあの井戸で感じた、どこか別の世界に引き摺り込まれるような感覚は、これまでの疑いを向けるのに十分な異質さをマキの中にこびりつかせていた。

 がたがたと、背中のシート越しに伝わる未舗装の道路をバスが進む感覚が、目的地の接近とこの先に待ち受ける不吉を知らせていた。

 バスは山の横っ腹をくり抜いたトンネルへと差し掛かる。古いトンネルは暗く、オレンジ色の灯りが申し訳程度に道を照らす。そして、数十秒の後にトンネルを抜けた瞬間だった。


 ごおっ!


 凄まじい勢いの風がバスの車体を大きく揺らした。

「!」

 突然の衝撃に少女たちの体が宙に浮く。

 横合いから押すように煽られたバスは、踏ん張るように急ブレーキをかける。強い浮遊感と共にスライドしながら移動するバスに、運転手が慌てた声を上げながらハンドルを強く握りしめた。

 バスは砂利を巻き込む音を立てながら、なんとか横転を免れてその場に停車した。

 運転手が上擦った声で言う。

「だ、大丈夫かい!?」

「大丈夫です! それより早く進んでください!」

「あ、ああ……」

 バスは大地に足がついていることを確かめるように発車する。

 窓から外を見ると、強風に煽られた稲穂がまるで髪の毛を掴まれた頭のように苦しげに引っ張られていた。一方向に向けて吹くその風は、背中から押すような力ではなく、まるで何かに吸い込まれているような感覚で空へと舞い上がる。例えるなら高層ビルや巨大なドームの扉を開けた時に感じる、気圧差によって生まれた風のような感覚だった。

 そして、その風の終着点が空にあった。


「なに、あれ……」


 それは黒い星だった。

 否、それは空に浮かび上がる黒雲の塊だった。塊は積乱雲のように嵩を増し、その奥にある黒雲の密度を冷たく凝縮し続けている。だがやはりそれは星だった。漆黒の水に端を発する外宇宙の惑星だった。

 地球に流れ落ちた冥界の惑星は、周囲に漂う大気とそれに連なる全てを喰らい、血が混じったような涅色の体をはち切れんばかりに膨れ上がらせている。冒涜的なまでに増殖を続けるその星はやがて、自身に纏わせたオールトの雲から飽和した黒水を滴らせた。

 ざあっ、と黒い雨が大地へと降り注ぐ。白い屋根が、透明のガラスが、緑の草木が、枯草色の生き物が黒に染まる。世界を極黒へと染め上げる狂気の怪雨ファフロツキーズによって、視界に広がる全てが汚染されたカオスへと変貌した。

「うわああああああああああああああああああああ‼」

 運転手の悲鳴が響く。悪夢の領域に飛び込んだバスは黒に塗れ、一切の視界が利かなくなっていた。

「‼」

 バスは再び急停車する。バス停はもうすぐそこだったが、既にバスでの移動は不可能な状態になっていた。

 マキは覚悟を決めてバスを降りる。粘ついた雨が体に纏わりついたが、それを無視して前を向く。ここまで来て、立ち止まる選択肢はなかった。


 マキと七尾は、都の家に向けて、黒雨の降り注ぐ道を真っ直ぐに歩き始めた。



         *


 びちびちと、重たい雨音が鳴り響く。

 粘つく雨は、重力を具現化したかのような勢いで大地を黒く叩きつける。その様子はまるで、地面をドラムに見立てて音楽を奏でているかのよう。

 そんな雨の中を、マキと七尾はただひたすらに走っていた。

 バスを出た時には小降りだった雨は、都の家に近付くにつれ、その勢いを増していく。そして、マキたちが目指す先にある都の家こそ、空を穿つ黒雲の、その真下にあった。そのため最初は顔をかばいながら歩いていたマキと七尾も、次第に強くなる雨に、たまらず駆け足へとなっていた。

 こんなことなら雨具を持ってくるんだった。学校を抜け出す時はそんな余裕もなかったため、ほとんど空手でここまで来てしまったものの、こうなってしまうと自分の準備の悪さにほとほと呆れ果てる。

 だがしかし、それでも行くしかないのだ。出来ることなどなにもなかったとしても、何も分からないまま友達を見捨てることだけはないように。

 そうしてマキは、都の家の門を潜る。新しく構えられた門も、溜井戸と書かれた表札も、夥しく降り注ぐ雨によって黒く塗り潰されていた。

「!」

 家が見える。設えられた庭園が目の前に。だがやはりそれらも、今や黒雨によって汚染されきっている。闇に潜む怪物が今にも獲物を飲み込まんと口を開けているような家と、その前に鎮座する元は盆栽や石灯籠だったであろう置物が、異形の姿を黒々と晒している。

 その様子はまるで、上空から大地を睥睨する凶星に仕える、忌まわしい配下のようだった。

 悪魔に飲み込まれたかのような禍々しい庭先に、マキは一瞬たじろぐ。しかし、心の奥底からなんとか気力を振り絞り、黒くべたつく玄関の戸を開け放った。

「都ちゃん!」

 返事はない。奥から人が出てくる気配もない。逡巡しながら靴を脱ぎ、濡れた体のままマキは畳へ上がる。

「おい、体拭かないと……」

「緊急事態!」

 七尾の常識的な指摘を一言ねじ伏せて、猛烈に屋敷を突き進む。マキが進むたび、畳や襖が黒く汚れていく。

 どうせ外がこんな様子なんだ。今更構うもんか。

「都ちゃんどこ!?」

 声を出しながら都を探す。玄関、いない。キッチン、いない。仏間、いない。都の部屋……いない。分かれて捜索をする七尾に呼びかける。

「七尾ちゃんいた!?」

「ダメだ! こっちにもいない!」

「どこなの……」

 家の中にはいないのだろうか。内心に焦りが募る。こうしている間にも都が手遅れになるんじゃないかと、不安な気持ちでいっぱいになる。

 家の中は粗方調べつくした。こうなると心当たりはもう、裏庭のあの井戸だけだった。

 そう思ってマキが、都の部屋を出て、玄関に靴を取りに戻ろうとした時だった。

「マキ!」

 七尾の声。

「!」

 すぐさま声のした場所まで駆けつける。都の部屋から廊下を渡ってすぐの部屋。その部屋の前で七尾は立っていた。

 七尾は横目でマキの到着を確認すると、部屋の奥へと指を差す。その先にあったのは、小さく体を丸めながらぶるぶると震える人影だった。


「……ください………して……ください………」


 それは都の祖父だった。祖父は小刻みに体を震わせながら、ぶつぶつと何事かを口にしていた。

「……許してください…………許して………どうか許して…………」

 祖父は、背後に立つ少女たちの存在に気付いていないのか、繰り返し、繰り返し、壊れたテープのように何かに謝り続けていた。

 マキと七尾は顔を見合わせる。そして、意を決したマキが震える体に手を添えた。


「あの……」

「わああああああああああっ!!」


 鼓膜が破裂してしまいそうな悲鳴が飛び出した。祖父は手足をばたつかせてその場にひっくり返る。

「許してください! 許してください!」

「お、おじいさん落ち着いて! 境井マキです! 都ちゃんの友達です!」

 暴れる祖父にマキが言う。その言葉を理解したのか、祖父は混乱しながらもマキに視線を向ける。

「さ、境井……さん…………それに……本影さん…………」

 限界まで見開かれた瞳が、ぎょろぎょろと二人の少女の顔を交互に見比べる。肩で息をしながら震える手を握り締める姿からは、なんとか状況を飲み込もうとする様子が窺えた。

「ど、どうして……」

「都ちゃんを助けに来たんです。あの黒い水のせいで学校が滅茶苦茶になって、それで都ちゃんも───」

 連れて行かれて、と言おうとする前に、祖父は再び頭を抱えてその場に蹲った。

「───許してください……! どうか許してください……!」

 そして先ほどのようにがたがたと体を震わせ、謝罪の言葉を繰り返し口にし始めた。畳に爪を立て、口の端から涎交じりの泡を吐き出しながら謝り続ける姿は、既に会話が可能な状態では無くなっていた。

 その様子に七尾は言う。

「マキ、行こうぜ。今はじいさんよりミヤを探さないと」

「う、うん」

 そう言って七尾は靴を取りに玄関まで向かう。だがマキは七尾に続かず、部屋に立ち尽くしたまま、蹲って震える祖父を黙って見下ろし続けた。

「……」

 そしてマキはしばらく逡巡した後、祖父の耳元に跪いて小さな声で囁きかけた。


「あなた、都ちゃんのおじいちゃんじゃないでしょ?」


 ぴた、と体の震えが止まった。

「……………………」

 部屋の中に重たい沈黙が漂う。その空気にマキは確信した。

「やっぱり……」

 おそるおそる顔を上げた老人の瞳には、動揺と驚愕の色が浮かんでいた。

「……どうして分かったんですか」

「私、おばあちゃんがいるんです。だからそういう人が孫に向ける雰囲気とか視線とか、そういうのなんとなく分かるんです。あなたの都ちゃんに対する態度って、なんだかおじいちゃんって感じがしなくって…………」

 放心する老人にマキは続ける。

「最初は血が繋がってないからとか、まだ一緒に住み始めて間もないからとか、そういう事かと思った。でも、そうじゃない。むしろあなたが都ちゃんに向ける気持ちや思いやりって、すごく深いものだと思う。だけどそれはやっぱり孫に対するものじゃないって心のどこかで感じるの」

 マキは意を決して聞いた。


「あなたは……誰ですか?」


 小さく息を呑む音。そして、老人は瞳から大粒の涙を溢れさせ、肩を震わせながら絞り出すように言った。



「僕は、あの子の……弟です…………‼」



「!」

 そのまま祖父は畳に崩れ落ち、火がついたように大声を上げて咽び泣いた。

 マキは祖父の言葉をどう解釈するか、どう声をかければいいのか迷う。しかし、二人分の靴を持って戻ってきた七尾が後ろから声をかける。

「おい、行くぞ。雨がまた強くなってきてる」

「あ、うん。わかった……」

 そう言ってマキは、ちらと祖父に視線を投げた後、後ろ髪を引かれながら七尾の後を追った。暗がりの部屋の中には祖父と、今までのやり取りを部屋の隅で黙って聞いていた、わらわだけが残された。

「……………………」

 わらわは、重たい腰を上げてマキの後に続く。そうして部屋を出ようとした時、喉を潰したような祖父のつぶやきを耳にした。

「みやげさま、許してください……どうか許してください……」

「…………」

 わらわは小さく鼻を鳴らして、濡れた靴を履き直す少女たちの下へと向かった。

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