四章 死に水
1
その日は朝から雨が降っていた。
明け方からしとしとと降り始めていた雨は、学校が始まる頃には大雨となり、朝礼の声を掻き消す勢いでガラス窓を打ち付けていた。
気象庁からは緊急の大雨警報と竜巻注意報が発令され、公共施設では避難指示に備えて、災害対応の準備を整えている真っ最中だった。
学校でも、朝礼が終わってすぐに先生たちが職員室に集められ、生徒たちを家に帰すべきかどうかの会議をすることとなっていた。そのため、低学年など一部のクラスを除く学年は全て、自習の時間となっていた。
もちろんそんな大人の事情など、子供たちにとっては全く関係のないことで、一限目のかったるい授業が潰れたことにほぼ全ての生徒が諸手を挙げて喜んでいた。
小煩い教師のいない中、非日常の興奮に当てられた子供たちは、この状況をどう楽しむかで頭がいっぱいになっている。
遊び始める者、友達とお喋りする者、読書を始める者、意味もなく教室を走り回る者、こっそり持ってきたお菓子を仲間内で分け合う者。
黒板に大きく書かれた「自習」の文字も、彼らにとっては「自由」に見えているに違いない。
マキたちもその例外に漏れず、自分の席から抜け出していつもの三人で集まっていた。
「ひどいよね、急にどしゃ降りになるんだもん」
湿った髪にハンカチを当てるマキの制服の端々は雨に濡れ、上品な布地に雨の轍を作っている。
「傘とか持ってこなかったのかよ」
「ううん、雨合羽だけ。でもこれだけ降ってたら意味ないね」
辛うじて守り切ったランドセルの中身を確認しながらマキは言う。
「わらわちゃんはいいね、濡れなくて」
びしょ濡れのマキと違って、わらわに濡れた様子はない。何かそういう力でも働いているのだろうか。
「妖狐パワーじゃよ」
「妖狐パワーかあ」
詳しく説明する気はなさそうだった。そう言えば都と七尾もあまり濡れていない。もしかして二人も知らない内に妖狐パワーを身につけたのだろうか。
「ああ、ちょうど私らが学校に着いた後に降り始めたんだ」
どうやら自分のタイミングが悪かっただけらしい。
マキは己の運のなさを嘆きながら、机に突っ伏している都に視線を落とした。
「……………………」
都は今朝からずっとこの様子だ。明らかに調子が悪そうな感じで、マキの言葉にも生返事しか返ってこない。気圧の変化にやられただけだと本人は言っていたが、目の下にくっきりと浮かぶ隈を見るに、どうもそれだけではなさそうだった。昨日の黒い涙の件についても色々と聞きたかったのだが、体調不良の都を起こして話をするのも悪い気がしたので、そっとしておくことにした。
「ん」
都の頭を眺めていたマキに、七尾は自分のタオルを差し出した。
「使えよ、ハンカチじゃ追っつかないだろ」
「ありがとう、助かる~」
マキは湿った制服の水をタオルに吸わせながら、七尾にお礼を言う。
肌着までは辛うじて浸水を免れたようだったが、雨合羽で隠しきれなかった足元はそうもいかない。横殴りの大雨は長靴の隙間から侵入し、靴下をぐしょぐしょに濡らしている。足を動かすたびに生温い水が、靴下とその下にある皮膚を引っ張った。
マキはその感覚を苦々しく思いながら、七尾にタオルを返す。ここで靴下を脱いでもよかったのだが、人から借りたタオルで足を拭くのは気が引けるし、それにもし帰宅指示が出た場合の事を考えると、濡れた靴下をもう一度履き直すのはなんだか嫌な気持ちがした。
雨音はなおも激しく鳴り続けている。
「どうなるんだろうね、今日の授業」
「んー」
七尾が受け取ったタオルを椅子に引っかけながら言う。
「ミヤの調子もよくないし、帰れる方がいいけどな」
同意する。マキ個人としてもこんな不快な状態のまま授業を受けられる気はしない。しかしこの天気の中で、果たして無事に帰れるのだろうか。
雨ガラスになった窓から校庭を見下ろすと、砂の混じった小さな流れがいくつもの線になって大きな川を作っている。その先にある排水溝はとっくに容量を超え、ごぼごぼと溺死寸前の吐息を漏らしながら行く当てのない湖を形成していた。
その様子を眺めている時だった。
がらっ、
教室の扉が開き、担任の栢森が入ってきた。
それを見た生徒たちは、大慌てで自分の席へと戻っていく。無秩序だった騒がしい教室は、統率を取り戻したように静まり返った。
栢森は不機嫌そうに鼻を鳴らして教壇に立つ。そしていつもの厭らしい笑みを浮かべると、嬉しそうに言った。
「職員会議の結果だが、このまま授業を続けることになった」
教室中が一斉に非難の声を上げた。帰れるものだと思って帰宅準備を始めていた者もそれなりにいたようで、大人は卑怯だの横暴だのと声が上がる。
栢森はそれらの声を噛み締めるように頷くと、黒板に書かれてあった「自習」の文字を勢いよく消していった。
「では一限目を始める」
そうして栢森は教科書を開き───、
「………………」
───机に突っ伏したままの都を見た。
「おい」
冷たい眼差しに教室の空気が凍り付く。これから始まるであろう叱責に緊張が一気に張り詰めた。
栢森は都の席にずかずかと歩み寄る。
「起きろ」
都は動かない。それでも体の端々が小さく反応しているあたり、意識はあるらしい。
「起きなさい」
栢森が都の体を揺すると、都は緩慢な動作で体を起こした。
「………………」
その顔面は蒼白で、瞳はどこか虚空を見つめていた。
そんなあからさまな不調を目にしながら栢森は言う。
「なんだその目は」
「…………」
沈黙を続ける都に、栢森は段々と苛つき始める。
「俺に文句があるのか」
都の口は固く引き結ばれたまま。
「言ってみろ」
「……………………」
「言ってみろ!」
ばん! と、机を叩いた瞬間だった。
「──────ごぼっ」
都の口から溢れたのは言葉ではなく、
黒く、粘度の高い、そんな水音だった。
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