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「…………それでは都さん、何かあればいつでも呼んでください」
血の滲む絆創膏を額に貼った祖父は、そう言い残して襖を閉めた。
自室の布団に体を預けた都は、去っていく足音を聞きながら開いたままの左目と、眼帯に覆われた右目を静かに閉じた。
*
学校での騒動の後、保健室で眠っていた都を迎えに来たのは真幸だった。
驚く都に真幸は「実はこういう仕事もしているんですよ」と言って、病院へと車を走らせた。到着したのは市の病院だった。マキさんのお母さんが勤めている病院だ、と都は思った。
そこで色々な検査を受けさせられたのだが、その結果が出るまでにやたらと時間がかかり、気付いた頃にはもう夕方になっていた。
検査結果は『異常なし』。黒い涙については、インクか何かが顔についていたか、突然涙が出たショックで脳がそう錯覚してしまったのだろうということだった。
「きっとビックリしたよね。でも子供の頃にはよくあることだから大丈夫。安心してね」
医師はそう言って、白衣から取り出した飴玉を都に手渡した。
そんなことがあるのだろうかと、マキに連絡をして自分が汚してしまったタオルについて聞いたのだが、タオルは綺麗になっていたそうだ。しかし、あの黒い涙を見ていたのはマキも同じのようだった。
それを聞くと余計に分からなくなる。自分が錯覚しただけなら、マキが黒い涙を見ているはずがないし、恐らくあの場にいた他のクラスメイトも同じものを見ていたはずだ。それともこれが集団パニックというやつなのだろうか。
イマイチ納得しきれない都は、むすっとした表情を浮かべながら飴玉を口に放り込む。甘いざらめの粒がついた飴玉は思ったよりも大きく、舐めている内に頬の内側が痛くなる。
そうして舌先で飴玉を転がしながら待合室で座っていると、遠くからドタドタと騒がしい音が聞こえ、汗だくの祖父が慌てた表情で駆け込んできた。
「都さん……!」
「じいじ!? どうしたんですかそれ!?」
目の前に現れた祖父は体中に青痣を作っていた。よく見ると額にも傷があり、うっすらと血が滲んだ跡がある。
息を荒げて胸を上下させる祖父は都の下まで駆け寄ると、驚く都の体を強く抱き締めた。
「よかった………!」
痩せた体から、張り裂けそうな心臓の鼓動が伝わってくる。上気した肌と汗に濡れた服が都の顔に張り付いた。
「ちょ、暑っ、じいじ、汗」
「あ、ああ………すみません」
べちょりと音を立てて祖父の体が離れる。都はまとわりついた汗をハンカチで拭き取った。
「大丈夫、なんですか、都さん」
はあはあと息が上がったまま祖父は言う。
「こっちの台詞ですよ。なんですかその傷」
「ああいや、これは…………」
ごにょごにょと口ごもる祖父に代わって、別の声が質問に答えた。
「転んだんです、家の中で」
そう言って現れたのは真幸だった。
「都さんのことを先生に伝えたら酷く動揺されまして。焦ったんでしょう、あちこちぶつけたみたいです」
真幸は涼しい顔をしながら話を続ける。
「危ないと思ったので、車で迎えに行ったんです。するとこの有様でしょう? 幸い軽い手当で済みましたが、先生をお医者様に診せる方が先かと思いました」
「………ああ」
たまに見る祖父の振る舞いから、その光景が容易に想像できた。最も、ここまで慌てた姿を見たことはなかったが。
「それで、都さん、何も、なかったんですか」
未だに呼吸が収まり切らないまま祖父が言う。
「大丈夫ですよ、異常はないそうです。痛みもありませんし、問題ありません」
「そう、ですか……」
祖父はのろのろと重たい体を動かして都の隣に腰掛けると、緊張が切れたように椅子に沈み込んだ。
「よかったぁ~」
大きくため息を吐く姿に、都は笑って言う。
「もう、どうしたんですか」
「いや僕はもうね、都さんに大事ないか心配で心配で」
「だからって、じいじが怪我しちゃ本末転倒じゃないですか」
「あなた昔っからそう言いますけどね、何かあったら
元気が出てきたのか、祖父も軽口を叩いてみせる。
「ですが先生も大概にしてください。毎度こうではわたしも困りますから」
「あ……ああ……すみません」
ころころと表情を変える祖父に都はまた笑う。
「変なじいじですね」
祖父も
「さて、そろそろ帰りましょう。送って行きますよ」
くるくると車の鍵を
「ありがとう、助かります」
そうして会計を済まそうと受付へと向かった祖父の動きが、ぴたりと止まった。
「…………」
「どうしたんですか?」
「………財布を……忘れました」
真幸のため息が小さく聞こえた気がした。
*
そうして帰宅したのが二時間前のこと。
車を出してくれた真幸を見送った後、軽い食事とお風呂を済ませて、都は床につく。
部屋中に散らかっていた本は一ヶ所にまとめられ、今は敷布団が部屋の真ん中に敷かれている。都がお風呂に入っている間に祖父が用意してくれたものだ。いや、枕元に置いてある水差しとマグカップの乗ったお盆を見るに、真幸の指示あってのものだろうか。
なんにせよ、慣れない気遣いをさせてしまった。
「……………………」
都は布団から腕を伸ばして、本棚にもたれかかるように座っているぬいぐるみを引き寄せた。クラゲを擬人化したようなデザインをしたぬいぐるみは、胴体から伸びる
海洋学の研究会に出向いた時のお土産だとかで、祖父が都にくれたものだ。
クラゲを模したキャッチーなその見た目は、子供たちが海の生き物に興味を持ってくれるようにと、イラストレーターに依頼して作られたものらしい。その試み自体が上手くいっているかどうかは知らないが、ネットではそれなりに話題になったそうで、グッズの売り上げで研究予算が増えたり町おこしに起用されたりと、思いもよらぬ方向で一役買っているのだそうだ。
今、都が抱いているぬいぐるみも早々に完売したもので、入手困難な品であるということだが、正直言って、都はこのぬいぐるみのデザインにはあまり興味がない。
元々、馴染みの良いキャラクターよりも無機物的なデザインに惹かれる傾向のある都にとって、かわいいぬいぐるみにさして価値はない。それよりも重要なのは抱き心地だ。その点で言えば、このぬいぐるみの抱き心地は申し分がなかった。肌触り、柔らかさ、体にフィットする形状。どれを取っても文句のつけようがない。今ではこれなしでは安心して眠れない体になってしまったほどだ。
「はあー……」
都はぬいぐるみを抱えて大きく息を吐く。抱き癖のついたぬいぐるみが、くしゃ、と歪んで変な顔になる。
それを見て、都はもう一度、重たいため息を吐いた。
またやってしまった…………。
自己嫌悪が都の中に渦巻いていく。
ぬいぐるみのことではない。祖父についてのことだった。
都には、祖父に対する負い目があった。この家に住まわせてもらっている負い目と言ってもいい。
いくら息子夫婦の子とは言え、血の繋がりもない他人の子供と二人暮らしなど、祖父もしたくはないだろう。ましてや女の子など余計に扱いに困っているはずだ。表面上はなんでもない風に振舞っていても、内心で疎まれていてもおかしくない立場なのだ。
元々病気がちなことや前の学校でのこともあって、定期的な通院を続けているが、そういう部分も祖父のような年代の人からすれば不健康な子供に見えるかもしれない。それにもし自分になにかあれば、責められるのは保護者である祖父なのだ。面白いはずがない。
もちろんこんなことは全てネガティブな妄想だ。
都だって祖父のことは好きだ。人柄はいいし、話は面白いし、知らないことはなんでも教えてくれる。こんな自分にもとてもよくしてくれている。
多分、自分が思っているより、祖父も私のことを好きでいてくれているのだと思う。
だけど、それでも、だからこそ、祖父に心配させたくなかった。祖父に迷惑をかけたくなかった。
今日の病院での、空が落ちてきてしまったような祖父の顔を思い出すと、鬱々とした気分になる。
嫌悪。
そう、嫌悪だ。
自分は決定的に他人を信じることが出来ないのだ。
そのことが都の心を
しかしそれがある種の真実に基づいた思考であり、それ故にそこから逃れられない事を理解していた。
都が目を患ってからの、クラスメイトの態度にしてもそうだ。
何をする時でもみんなが優しくしてくれる。どこへ行くにも誰かが気遣ってくれる。過剰なほどのサポートをクラス全体がしてくれる。
だが、周囲のそういった対応が本心ではないことに、都は薄々気が付いていた。
みんな、本当は私を心配しているわけではないのだ。みんなが本当に気を配っているのはマキと七尾。あの二人に対してだ。
女子の中心人物であるマキと、男子と対等に張り合う七尾。あの二人の機嫌を損ねないために、みんなは都に優しく接しているに過ぎないのだ。
マキと七尾は無自覚なようだが、彼女らの校内での地位は極めて高い。そんな二人が目をかけている溜井戸都が目に見えて困っているなら、周囲は助けざるを得ない。間違っても粗雑に扱うことは許されない。もしそんなことをすれば、境井マキと本影七尾に目を付けられるかもしれないから。
そうでなければ誰が私なんかに構うものか。
周囲から見た自分は、あの二人の腰巾着に過ぎないのだ。
マキのように率先してコミュニケーションを取るわけでもなく、七尾のように運動が得意なわけでもない。頭でっかちで、皮肉屋で、
本当はそんな事はないのかもしれない。心からの善意で気を遣う者もいるかもしれない。だが、以前の学校での経験が、都を
自分よりも下等なものを見る、あの
「う……く…………」
急激に蘇る忌まわしい記憶に目頭が熱くなる。奥歯を食いしばり、内臓を搾り上げる吐き気をなんとか抑えつけた。
自分もそうだ。あの汚れた瞳に曝された自分もまた汚れているのだ。自分にはもう、疑いのない目で人を見ることなど出来ないのだ。この濁った瞳はもう、自分の意思とは関係なく相手を値踏みするようになってしまったのだ。
信じたいのに信じられない。引き裂かれるようなジレンマ。
自分の胸に延々と杭を打ち続けるような思考の
見開かれた瞳から溢れる涙の温かさだけが、
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