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 白いベッドに、うっすらと漂う薬品の香り。

 保健室という場所は、子供たちの学び舎である学校において数少ない、静黙せいもくを求められる空間だ。普段利用する機会がない者にとっては、非日常のものとして感じられるだろう。

 マキにとっても、保健室はあまり馴染みのある場所ではない。

 体調が悪くて休みに来ることもなければ、転んで膝を擦り剝くこともない。ここに来る機会があるとすれば身体測定の時くらいだろうか。なんだか校長室に足を踏み入れた時のような場違いな感じがした。

 マキはパイプ椅子に腰を下ろしながら、そわそわと膝を擦り合わせる。

 脇には丸められたラップタオルが置かれてあり、淡いピンク色の布地の端々に黒い染みを滲ませていた。

「………………」

 その染みをマキは、じっと見つめる。

 一体これはなんなのだろう。涙でも、血でもない。黒くて粘ついたこの液体は。

 目からこんなものが出るなんて聞いたことがない。少なくとも保健室の先生は知らないようだった。もしかするとそういう、珍しい体質だったりするのだろうか。しかし都の動揺を見るにそれもなさそうだ。外科医の母なら何か分かるのだろうか。

 マキは悶々としながら、備え付けのベッドを見る。

 白いベッドには、新しいタオルを目に当てた都が力なく横になっていた。

 保健室に来た都は、軽いパニックを起こしていた。それもそのはず、誰だって自分の体にあんな異常が起これば混乱する。養護教諭とマキで都を宥めて、ようやく落ち着きを取り戻したのがさっきのこと。気付けば黒い涙も治まっていた。

 それから都をベッドで休ませて、マキはそのまま保健室に居座る形になっていた。

 時計は既に次の授業の開始時間を過ぎていた。都を宥めるのに必死で、予鈴のチャイムが鳴ったことにも気付かなかったようだ。

 病院に連絡すると言って養護教諭が席を外したため、保健室にはマキと都の二人きり───いや、三人きりだった。


「なんかえらいことになっておるのう」


 どこからともなく現れたわらわが、マキの隣に立つ。

「どう見ても尋常の有様とは思えんが」

「やっぱり、そうかな……」

 マキも同じことを考えていた。ここ最近の都は何かがおかしい。厄介な病気と考えるのがこの場合は普通なのだろうが、マキは普通ではない世界を知っている。その象徴であるわらわを見るたび、心にちらつく疑問はより濃くなっていく。

「誰かに呪われてるとか、何かに取り憑かれてるとか、そういうことってあるのかな」

「ほう」

 考えを口に出していくマキに、わらわが興味深そうな顔をする。

「だって絶対おかしいよ。こんなの何かの影響があるとしか思えない」

「心当たりはあるのか」

「わかんない……でも都ちゃんの家に関係してると思う。都ちゃんの様子がおかしくなったのって、家を改築してからだもん。上手く言えないけど、都ちゃんの家ってなんだか変だよ。七尾ちゃんが前の家は怖かったって言ってたけど、私は新しい家もなんだか変な感じがする」

 自分でも取り留めのない内容だと思う。しかし何故だか奇妙な確信があった。

「だから改築の時に何かあったのかもしれない。あの井戸だって家のすぐ裏にあるのに、あんなにボロボロになるまでほったらかしにされてたのもおかしいよ。それに、あのおじいちゃんだって……」

「?」

「……ううん、なんでもない」

 そう言ってマキは黙り込んだ。

 誰も口を開く者のいない保健室に、再び沈黙が訪れる。

 わらわは手持ち無沙汰になりながら、途切れた話をそのままに室内を歩き回る。壁に張られた健康だより、小瓶の詰まった薬品棚、そして黒く汚れたラップタオル。わらわは床に直置きされたタオルを指で摘まむと、すんすんと鼻を鳴らす。しかし特に何を言うでもなく、ぽいっと足元にタオルを投げ捨てた。

「………では視てみるか」

「えっ?」

 わらわの言葉にマキが顔を上げる。

「よう分からんと言うのなら、暴いてしまえばよいのじゃろ」

 そう言ってわらわは、ベッドで浅い寝息を立てる都の脇に立った。


「“高提灯たかちょうちん箱提灯はこちょうちんおびただしくともて”」


 ふっ。

 短いことばとともに保健室から光が消える。白く輝く蛍光灯も、窓から射し込むカーテン越しの太陽も、その一切の光が消えてなくなった。

 そして、それら光源だったものが全て、ぼんやりと赤い光を放ち始めた。真っ赤なフィルターがかけられたかのような灯りは、保健室を艶めかしく染め上げる。

 以前、夜の学校でわらわが見せたものだ。あの時はわらわに化けた狐が正体を暴かれ、自身の姿を保てなくなったと記憶している。

隠形おんぎょうはわらわの得意とするところでな」

 赤光に染まるわらわが言う。

「得意ということは、それを見破る術にも長けていると言うことじゃ」

 にやり、とわらわは笑ってみせる。

 もし都に何かが取り憑いているのであれば、耐え切れずに飛び出してくるはずだ。後はわらわになんとかしてもらえばいい。何も起きなければ、それはそれで怪異によるものではないと分かる。

 赤く照らされた都を見つめながら、マキは固くなった唾を飲み込んだ。


「…………………………」


 しかし、都に変化が訪れることはなかった。

 やがて赤い光は徐々に薄れてゆき、元の照明と太陽の光で保健室が白く照らされる。後には元通りの景色が残された。

「何もなかったね」

「なかったのう」

 穏やかな寝息を立てる都の姿に、わらわとマキは顔を見合わせる。

「取りあえずよかった……のかな」

「さてな」

 わらわは素っ気なく返事をする。どこか不機嫌そうな態度は、当てが外れたことに対する不満だろうか。

「とにかく、しばらくは様子を見てやれ。何もなかったということは、タチの悪い病やもしれんのじゃからな」

「あ、うん」

「わらわは疲れたから寝る。夕飯は天ぷらそばにしてくれ」

 一方的にそう告げたわらわは、空いたベッドに倒れ込み、そのまま丸まって深い寝息を立て始めた。

「ええー」

 残されたマキは、その場でわたわたと狼狽える。とは言え特に出来ることもなく、再びパイプ椅子に座り込んだ。そして、ため息とともに自分の中で張り詰めていた緊張を吐き出した。

 どうやら都が何か悪いものに取り憑かれているわけではない、と判断してよさそうだった。不安がひとつ解消されたことで、小さな安心が生まれる。

 そうして、ラップタオルを回収しようと視線を落とした時、マキはその変化に気が付いた。


 黒ずんでいたタオルが元のピンク色に戻っていた。

「?」


 綺麗な側だけが見えているのだろうか。そう思って手に取ってみるが、タオルには少しの汚れもなかった。

「あれー?」

 さっきわらわが触れていた時は確かに黒かったはずだ。もしかして違うタオルかもと思ったが、ネームタグには確かに自分の名前が書かれてある。じゃあ、あの黒い水はどこに行ったのだろうか。そこいらを見渡してもそれらしい汚れは見当たらない。

 そうこうしている内に、戻ってきた養護教諭に「あなたは授業に戻りなさい」と言い渡され、マキは仕方なく濡れたタオルを手に保健室を後にした。


         *


 かつかつと、チョークが黒板を擦る。

 それに合わせて生徒たちが板書する音が教室中に広がった。

「……と言った理由から、日本では台風による災害が多いわけだ。かつてはこの原綿でも局所的な台風が頻発していたという記録があるが、地形の変化や温暖化の影響などにより現在は───」

 栢森が軽い話題を挟みつつ社会の教科書を読み上げる。

 七尾はそれを聞き流しながら、込み上げた欠伸を噛み殺した。

 午後の社会ほどつまらないものはない。日本の地理や産業なんかには興味がないし、そんなことを勉強したところで生活の役に立つわけでもない。特に環境問題などは、国会議員のようなえらい人が話し合って決めればいいことで、自分にはまるきり関係のないことだ。

 …………ミヤが聞いたら怒るかもな。

 そう思いながら七尾は、惰性のままにノートに鉛筆を走らせる。散漫な意識を、眠らないギリギリで保ちながら黒板の内容を丸写しにする。

 七尾が意識を保っているのには、もう一つ理由があった。保健室に行ったという都の様子が気になるからだ。ジョーに話を聞いた後、自分もすぐに保健室に向かおうとしたのだが、直後に鳴った授業開始のチャイムと同時に教室に現れた栢森によって、七尾の行動は阻まれたのだった。

 そうして七尾は不愉快な気持ちを募らせながら、授業の終わりを待っている。

 七尾は遅々として進まない時計の針を憎々しく思いつつ、マキの席へと視線を投げた。

 都を保健室に連れて行ったマキは、まだ帰ってきていない。一体なにがあって今はどうしているのか、ただそれが気がかりだった。

「ちっ……」

 七尾は気分を変えようと窓の外に意識を向ける。教室の中は心を乱すものが多すぎる。このまま校庭を眺めている方がよっぽどマシだ。

 そう思って校庭に視線を落としていると、一台の車が校門から入ってくるのが見えた。

 何の変哲もない白い乗用車だ。町でよく見る電気自動車に似ている。

 こんな時間に車が入ってくるなんて珍しいな。

 静かに走る車はやがて校舎の角度に阻まれて、七尾からは見えなくなった。そして数分も経たない内に、車は元来た道を引き返して校門から出ていった。


「……真幸まきゆさん?」


 運転席に一瞬見えた金髪の横顔は、ついこの間知り合った女性のものだった。遠目だったからはっきり見えたわけではないが、多分間違いない。でもどうしてこんなところに?

 疑問が生まれる七尾だったが、直後に開いた教室の扉により、始まりかけた思考は中断された。

 がらりと開かれた扉から現れたのはマキだった。マキは気まずそうな顔をすると、教室中の視線を受けながらそそくさと自分の席に戻っていった。

 中断された授業は、栢森の咳払いの後に再開された。

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