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 溜井戸ためいどという地名は、原綿市はらわたしに古くからあるものだ。

 そしてその地に住む者もまた、同じ苗字を持つ者が多い。

 そのせいか、この溜井戸という比較的珍しい名前を目にすることも、原綿市内に住む者にとってはそこまで珍しいことではない。そして溜井戸の地に近付けば近付くほど、その割合は増えていく。

 土地柄なのか、溜井戸では地域の人間同士の結束が強く、幼馴染み同士の婚姻も多い。

 こういう説明をすれば嫌でも排他的なイメージが湧いてくるが、その実、溜井戸の住人たちは非常に穏やかなことでも知られ、外様の者に対しても温かく、まるで家族のように迎え入れる。そのためか、療養地としての側面もあり、また県外からの移住者が定住を決めることも珍しくなかった。

 とは言え、お世辞にも暮らしやすい土地とは言い切れない。

 村の区分にあるこの地は、徒歩や自転車のみで生活することは難しく、日常の買い物にも車で三十分かけて山を下る必要がある。その他にも生活用水は未だに井戸水を採用していたり、公共の電波が届かない山奥のため、通信機器は常に圏外という有様である。

 どれだけ住み心地が良かろうと、それなりの不便を強いられるのが、田舎というものなのだ。


 そんな土地にマキは、わらわを伴って向かっていた。

 目的は、学校を休んだ都のお見舞いだ。鞄には手土産代わりに学校で渡されたプリントが入っている。

 原綿小学校前から出るバスに揺られ始めてそろそろ一時間。バスはがたがたと車体を揺らしながら未舗装の国道を走る。

「しっかし、えらい田舎じゃのう」

 わらわは車窓に両手をくっつけながら、後方に流れていく緑の景色を眺めて言う。

「まあ空気はええがの、マイナスイオンがあちこちに満ちておるぞ」

「そういうのって分かるもんなの?」

 妙に俗っぽい言い回しにマキが問いかける。

「いや知らん」

「…………」

 どうやら言いたかっただけのようだ。最近になってようやく分かってきたのだが、わらわという存在は色んな意味で掴みどころがない。意味ありげなことを言ったかと思えば突然夕飯の話を始めたり、散歩に行ってくると言いながら全く別のことを始めたり、そういう事ばかりだ。

 要するに気分屋なのだ。

 最初はマキもそれに対応しようと努力していたが、ただいたずらに翻弄されるだけだと気付いてからは、わらわの好きにやらせている。わらわもその方がいいと自認しているらしく、マキが適当に接していても特に文句は言ってこなかった。

 『お供え物』の件で一度失敗しかかったこともあり、マキも最初は少し悩んだが、特に問題がないのでこのスタイルを続けている。

 そうこうしている内に、車内にある電光掲示板が終点を示す合図を出し、バスがゆっくりと停車した。

 踏みしだかれた雑草の混じる道路に足を下ろすと、クーラーがかかっていた車内の空気から一変して、むわっとした熱気がマキを出迎えた。

「あっつ!」

 むせかえるような熱に思わず倒れそうになりながら、マキは鞄のサイドポケットから紙を取り出す。電波の届かない都の家に向かうために、あらかじめプリントしておいた地図だ。

 これまで紙の地図というものに触れてこなかったマキは、くるくるとプリントの角度を変えながら、何度も現在地と目的地を確認する。

 きょろきょろと周りを見回すと、片側に見える山の斜面に、階段状に切り取られた段々畑の景色が見える。そこに作られた田んぼには、緑の稲穂が太陽の光を吸い込んでぐんぐんと背伸びをしていた。

「山がこっちにあるから多分、あっちかな……」

 マキは、しばらく紙とにらめっこをした後、ようやく周りの景色と地図の形を一致させたようで、ぽつぽつと民家の見える方角に向けて歩き始めた。


         *


「や、やっと着いた……!」

 マキは全身汗だくになりながら、都の家の前で立ち止まった。

 結局マキは、ここに辿り着くまでに何度も家を間違う羽目になった。

 それもそのはず、この辺りの家の表札は大体が『溜井戸』なのだ。都の家に行ったことのないマキはどれが目的の家なのか分からず、最終的には近場の家から出てきた老婆に道を教えてもらうことにしたのだが、

「ここから見えるお家は、ほとんどが溜井戸だから分かんないわよねぇ。ついでに私も溜井戸よ」

 などと笑われる始末であった。そのまま都の家を教えてもらって立ち去るつもりだったのだが、「この暑さの中、先生のお宅に行くのは大変でしょう。こぉんな汗をかいて」と、なりゆきで冷たいお茶までいただいてしまった。

 まるで本当のおばあちゃんみたいに良くしてくれる老人に、マキは何度もお礼を言って都の家までやってきた。

 マキは再び流れる汗を拭いながら、『溜井戸』と表札に書かれた門をくぐる。

「わぁ……」

 とても大きな家だった。

 パッと見た印象は年季の入った木造の平屋建て。しかし、立派な瓦に覆われた屋根の奥行きを見る限り、玄関からでもかなりの広さが窺える。

 そしてその玄関先にはしっかりと手入れの行き届いた庭園が設えてあり、石灯籠や縁石、盆栽といったものが完全な調和をなして飾られていた。

 その庭園に、マキは一瞬心を奪われた。どんなお寺や神社でも、こんな立派な庭園を見ることはそう多くない。荘厳美麗という言葉がぴったりと当てはまるこの光景には、日本の美の迫力というものを感じさせられた。

「おぉ、これは……」

 隣で見ていたわらわも感嘆の声を漏らす。恐らくこの庭に着物姿のわらわが立てば、絵になるのではないだろうか。

 あえて不揃いに敷かれた枕木の上を歩きながら、その先にある玄関を目指して進む。そう長くない道中も、マキとわらわの視線は庭園に釘付けになっていた。

 そして玄関に辿り着いたマキは、インターホンを鳴らそうとボタンを探す。

「あれ?」

 玄関にはそれらしいものは見当たらない。昔の家にはインターホンがないと言う話はどうやら本当らしい。マキはうっすらとした緊張を胸に小さく息を吸う。

「ごめんくださーい」

 玄関先でこんなことを言うのは初めてで、なんだか気恥ずかしかった。

 しばらくすると、奥から軽い足音が聞こえ、すりガラス越しに人影が映る。そのままカラカラと玄関扉が開き、身なりの整った老爺が現れた。

「はい、なんでしょう」

「あ、えっと……」

 てっきり都が出てくるものだと思っていたマキは、知らない老人の登場に一瞬面食らった。

「?」

 老人は玄関でまごつくマキを不思議そうな顔で見ていたが、やがてピンときたように口を開いた。

「もしかして、都さんのお友達でしょうか」

「あっ、はいそうです!」

 戸惑いと緊張が混じって思わず大きな声が出た。かあっ、とマキの顔が羞恥に染まる。老人はそれを見て嬉しそうに笑った。

「元気なお返事ありがとうございます。その様子ですと、あなたは境井マキさんですね。都さんからいつもお話は聞いています」

 その言葉と丁寧な物言いに、目の前の老人が都の祖父であることにマキは遅れて気が付いた。


「どうぞ、お上がりください。都さんのお部屋まで案内します」



         *


 家に上がったマキは仏間に通され、そこで一人ぽつんと正座をしていた。

 一度は祖父に連れられて都の部屋へ向かったのだが、座る隙間もないほど積み上げられた本の山に、「これでは境井さんが窮屈でしょう」とため息交じりに仏間まで案内されたのだった。

 六畳の和室を丸ごと二つぶち抜いて作られたこの仏間は、客間としても機能しているらしく、大きな長机が部屋の中心を占領している。そして部屋の隅には何段にも積み重ねられた座布団が山になっていた。

 おばあちゃんがいつも見ている落語番組みたいだな、とマキは思う。

 しかしそれよりも印象的なのは、部屋の奥にある大きな仏壇だった。マキの身長よりも大きく縁取られたその仏壇は、黒と金の調和によってある種の荘厳さと威圧感を放って鎮座していた。

 中心にある像は仏様だろうか。仏教にそこまで詳しくないマキには、それが何なのかは分からない。ただ、マキの祖母が自室に置いてある小さな仏壇にも、これと同じものが置いてあったと記憶している。

 古い家だ。きっと先祖代々守り続けてきた仏壇なのだろう。

 それを示すように仏壇の右の壁、その上側にいくつもの遺影が並んでいた。厳めしい顔の老人、温和そうな老女、歯を剥き出しにして笑うおばさん、どこか緊張を感じる眼鏡の中年。様々な顔がそこにはあった。

 天寿を全うした者も早世した者も、分け隔てなく供養されているのだろう。

 そうやって順番に遺影を眺めていたマキだったが、その視線がある一点で、ぴたりと止まった。


「…………あれ?」

 遺影の一ヶ所が、ぽっかりと空いていた。


 世代的には二、三代前に当たる位置だろうか。等間隔に並ぶ遺影の間に、一人分の隙間がある。

 わざと空けているのだろうか。いや、日焼けしていない壁を見るにそういうわけでもなさそうだ。額縁の交換で一時的に外しているだけかとも思ったが、あそこだけ外すというのもよく分からない。

 不思議に思って首を傾げていると、廊下に面した襖が小さな音を立てた

「すみません、お待たせしました」

 襖を開いたのは都だった。都は飲み物と菓子鉢の乗ったお盆をテーブルに置く。

「じいじからの差し入れです」

「あ、うん、ありがとう」

 手が空いた都は襖を閉めてマキの隣に座る。長く伸びた前髪のかかった右目には、大きな眼帯が貼られていた。

「目、大丈夫?」

 完全に右目を塞ぐ眼帯に、マキは不安を覚える。しかしマキの心配をよそに、都はあっけらかんと答えた。

「大丈夫ですよ、別になんともありませんでした」

「でも、その眼帯は?」

「ばい菌が入らないようにということで、念のために貼られました」

「そっか、ならよかった」

 マキは、ほっと息をつく。今日は一日、学校を休んだ都になにかあったのではと気が気でならなかったのだ。一応こまめに連絡は取っていたのだが、自分の目で確認するまではどうにも不安を拭いきれなかった。

「みんな大袈裟なんですよ、ちょっと涙が出たくらいでしょう」

「それはそうだけど……」

「そんな顔をしないでください。明日はちゃんと学校にも行きますから」

 都は、そっとマキの手を握って微笑みかける。それを見てマキも都に微笑み返す。さっきまで胸に溜まっていた影のような不安が、笑顔に吹き飛ばされたようにどこかに行ってしまった。

 そんなマキの様子を見た都が、すっと人差し指を立てる。

「それでは、あれをなんとかしましょう」

 びしっと都が指差す先を見ると、菓子鉢に盛られたお菓子を口いっぱいに詰め込んだわらわと目が合った。


「………………………………」


 一瞬、時間が止まったように、わらわはぴたりと動きを止める。

 しかし直後、マキが声を上げようとした瞬間、わらわは目にも止まらぬ速さでお菓子を抱えると、そのままどこかへ走り去ってしまった。

「…………あー」

 マキと都は互いに目を合わせると、取りあえず残ったコップに冷たい麦茶を注いで、いそいそとお茶請けのないお茶会を始めるのだった。

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