一章 誘い水

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 夏という季節は鮮やかの一言に尽きる。

 青く晴れた空、白く輝く太陽、それを反射する鏡のような海。潮の香りに混じる夏草の青い匂い、繁茂した草木に満たされた緑一面の山々。海も山も、自然に連なる全てが、その鮮やかな色彩をもって冬季に溜め込んでいた生命力を爆発させていた。

 そして、その生命力を秘めているのは、何も自然だけではない。

「おーい、こっちこっち!」

 大きく両手を振って走る少女は、夏の暑さを吹き飛ばすような明るい笑顔を浮かべていた。

 学校指定のスクール水着に身を包んだ少女、境井さかいマキはギリギリまで水の張られたプールの縁を大喜びで走る。

「ま、待ってください~」

 そんなマキを追う小柄な少女、溜井戸都ためいどみやこ

 ぺたぺたと足音を鳴らして走るその姿は、誰がどう見ても運動神経に難ありと言った様子。小学五年生にしては低すぎるその身長もそれに拍車をかけている。

「走るなって、滑るだろ」

 そんな都の肩を掴むのは、本影七尾もとかげななお

 都とは対照的に高身長な彼女は、高校生に間違えられることも多く、都とセットだとまるで年の離れた姉妹のようにも見える。生家が父の営む武道塾ということもあり、スクール水着越しでも分かるほど引き締まった体つきをしている。

「ね、ね、早く入ろう」

「先生がいいって言うまでダメだって。準備運動とかあるだろ」

 待ちきれない様子で、うずうずと体を震わせるマキに、七尾が言う。しかしそれを諫めた側の七尾も、内心では期待で胸がいっぱいになっていた。

 それもそのはず、今日は待ちに待った原綿小学校のプール開きなのだ。

 この数週間、うだるような熱気のグラウンドと電子レンジのような体育館で行われていた体育の授業は、まさに地獄と言って変わりない。そんな汗まみれの運動から解放され、透明なプールに飛び込む解放感を味わえる瞬間を、マキたちは今か今かと待っていたのだった。

 スクール水着姿のクラスメイトがぞろぞろと集まって、プールサイドを埋め尽くしていく。遅れてやってきた中年教師の栢森かやもりが、汗だく姿でぶつくさと暑さに文句を言いながら、注意事項の説明と準備体操を始めていく。遮るもののない空を一人占めにしている太陽が、じりじりと肌を焼く感覚に、誰もが早く終わってくれと念じていた。

 そして、ついにその時が訪れた。

 栢森の号令を合図に、子供たちが一斉にプールに飛び込んだ。あちこちから上がる歓喜の叫び声。「飛び込むな!」という怒号を無視して生徒たちは互いに水を掛け合ったり、水泳勝負をしたりと全身でプール遊びを味わっている。

 マキたちもそれに加わって、きゃあきゃあと声を上げていた。

「気持ちいいー!」

「やっぱプールって最高だな!」

 マキと七尾は、ばしゃばしゃと飛沫を撒き散らしながらはしゃいで回る。

「でもこのプール、なんかぬるくないですか?」

 低学年用の浅いプールに浸かった都が野暮ったく言う。

「まあこんだけ暑きゃ流石に冷たくはないなー」

「この調子じゃ、来月には私たち茹でダコだね」

「それか干物ですね」

 三人は声を上げて笑う。ひとしきり笑った後、マキはもう一人の友達の名前を口にした。

「わらわちゃんも来ればよかったのにね」


 わらわちゃん。マキにしか見えない不思議な狐のおともだち。

 正確には、マキ、都、七尾の三人だけにしか見えない友達だ。


 つい先月、マキたち三人はわらわと出会い、それに連なる奇妙で恐ろしい体験をしたのであった。なんとか無事にやりおおせはしたものの、あんな経験はもうしたくないと思うには十分な出来事だった。

 ともかくそれ以来、わらわはマキにくっついて行動するようになっていた。

 と言ってもみんなでお話をしたり、一緒にご飯を食べたりするなど、普通の友達としていることはそう変わりない。

 重要なのは、わらわの姿と声は、この三人にしか知覚できないということだ。わらわを交えて話をしている場面を誰かが見れば、不審な目で見ることは間違いないだろう。そんな事態はなるべく避けるべきとして、この件は三人だけの秘密になっていた。

「それで、なんで来ないんだっけ?」

「なんか水は苦手とか言ってましたよ」

「そうそう、わらわには泳ぎなど必要ないのじゃー、ってどこかに行っちゃった」

 聞き返す暇もないくらいのスピードだった。

 多分泳げないんだろうな………。

 どうせ給食の時間になれば、お腹を空かせてどこからともなく現れるだろう。

 特に心配することもなく、マキはそう納得した。

「そう言えば、都ちゃんはこっちに来ないの?」

 マキはふと、浅いプールに浸かっている都を見て、何気ない疑問を口にした。いくら都の身長が低いと言っても、低学年用のプールは退屈ではないだろうか。

「もしかして泳げないの? よかったら教えるよ」

 せっかくのプールなのにみんなと遊べないのは寂しいだろうと、マキのおせっかい気味の性格が顔を出した。

 しかしそれに返事を返したのは七尾だった。

「ああ、マキは見たことないんだっけ」

 納得するように七尾。続いて都が言う。

「そう言えばそうですね」

「そんじゃミヤ、久しぶりにあれやってくれよ」

「えー、しょうがないですね」

 そう言うと都は、マキのいる高学年用のプールまでやってきた。自信ありげな笑みを浮かべる都に、マキは思わず唾を飲む。

 もしかして自分が知らないだけで、都は意外と泳ぎが上手いのだろうか。もしそうなら「教えるよ」なんて言った私は、とんでもない思い上がりをしていたのかもしれない。

「ほらマキ、上がって上がって」

 内心で反省するマキの心を知ってか知らずか、七尾は楽しげな様子だ。促されるまま七尾と一緒に水から上がると、都が入れ替わりにプールに入る。

「行きますよー」

 水泳キャップを被った都はそう言うと、大きく息を吸い込んでプールの底に沈んでいった。


「………………………………」

「?」


 いつまで経っても都が泳ぎ始める様子はなかった。と言うより、動き出そうという気配すらない。水に潜った状態のまま都はぴくりとも動かない。明らかに一分以上が経過していると言うのに、都は水中に留まり続けていた。

 石のように静止するその姿に、マキの心中に段々と焦りが生まれてきた。もしかして自分があんな事を言ったせいで、本当は泳げないのにムキになってしまったんじゃないだろうか。そしてそれを言い出せないまま本当に溺れてしまったんじゃないのだろうか。

「な、七尾ちゃん! 都ちゃん大丈夫なのこれ!?」

 狼狽するマキの表情は、水死体のように真っ青になっていた。

 しかし、七尾はまるで問題にならないという風に言ってみせる。

「んー、多分あと三分くらい浮いてこないんじゃない?」

「三分!?」

 あまりの衝撃に気が遠くなった。普通の人が息を止めていられるのは精々一分かそこらだと聞いたことがある。マキなら三十秒でギブアップだ。それをあと三分も? だとすると、トータルで五分近くは水中にいられることになる。

 間違いなく超人レベルと評するにふさわしい能力だろう。実際にこうして潜り続ける姿を目の当たりにしていても信じられない。

 マキはあわあわと口元を押さえながら、挙動不審なまま立ち尽くしていた。

 そうして緊張で引き延ばされた数分の後、ぷはっと音を立てて都が水面に顔を出した。

「都ちゃん!」

 プールから上がった都は、はあはあと喘ぎながら肺に酸素を送り込んでいる。そのままVサインをしながら、マキに向かって得意げに笑ってみせた。

「はあ……どう、ですか? はあ……見直し、ましたか?」

「分かった! 分かったから! 端っこ行って休も!」

 やはりあれだけ息を止めるのは楽ではないようだ。マキは慌てて都を屋根の下へと連れていく。そのまま休んでいると、次第に呼吸も平静を取り戻した。

「はあ……もう大丈夫です。ありがとうございます」

「もー、ビックリしたよ」

 安堵のため息を吐いたマキは、その場にぺたんと座り込んだ。

「見ての通り、潜水は得意なんです私」

 都は小さく笑いながら言う。

「だから泳げると言うのはちょっと嘘ですね。水に潜れるだけで移動はあんまり出来ないんです」

「そのまま五十メートルは歩いて行けるのにな」

「去年の授業では泳いでるのにはカウントされませんでしたね」

 おかげで水泳シールは初心者マークのままです。と、水泳キャップに貼られたビギナーシールを掲げてみせる。

 それを聞いて再びマキは脱力した。

「それならそうと先に言ってよ~」

「ちょっと驚かせてみたかったんです、すみません」

 素直に謝る都の姿を見ると、どうにも責める気にはなれない。小柄な体格もあって運動で遅れを取る都が、能力を披露出来る瞬間などそう多くはない。皆無と言っていいだろう。それを考えれば、こういう瞬間に頑張りたいと思う気持ちは十分理解できるものだった。

「でもさ、おかげですごいこともあったんだよ」

「すごいこと?」

 うずうずした様子の七尾が、ずいっと距離を詰めてくる。そして手に持った黒い計器を見せつけてきた。

「新記録。五分十二秒!」

「うわー! やりました!」

 両手を上げて喜ぶ都と音を立ててハイタッチする七尾。二人はきゃいきゃいとはしゃぎながら、何度も両手を合わせていた。

 マキはその様子をぐでっと眺めてから、心配して損したと、この日何度目になるか分からないため息を吐いた。

 空を見上げると、白く燃える太陽が学校から影を消してしまおうと天高く昇っていた。

 夏はまだ始まったばかり。

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