第10話

「ねぇ糸森君、私コーヒーが飲みたい気分かも」


 時刻は朝の10時半、喫緊の仕事が一段落したタイミングで桜河から声がかかった。

 モニターの下から見える彼女の細い指は、机を楽しげにトントンと叩いている。


「なんで俺が……あっ」


「この前言ってたじゃん」


「自販機で」


「いいと思う?」


 いいわけないか。

 コンビニで許されたいところではあるんだが。まぁこの前仕事を巻きとってもらって助かったのは事実だし、カフェでテイクアウトするか。


「昼休み買ってくるから」


「え〜待てないかも〜」


「いやいや、外行けないし。仕事中だろ」


 なおも楽しげな声はその勢いを落とさない。まるで泡が浮かんでは消えていく炭酸みたいに、彼女の声は俺の耳で弾ける。

 なんだか桜河、今日機嫌いいな。


「私これからたまたま・・・・外回りあるんだよね〜」


 彼女のスケジューラーを確認する。

 そこには11時から14時まで外出の予定が。


「誰か着いてきてくれないかな〜運転できる人がいいな〜」


「これ、なんの外勤?」


「契約書持ってくだけ」


「よしその話、乗った!」


 是非もない、喜んで随行するわ。面倒な商談とか委託先との調整会議とか、この世には精神と身体に毒な出張が蔓延っているのだ。

 そんな中顔見せも兼ねての外勤なら、そんな楽な話はない。


「ノリがいいとこ、嫌いじゃないよ」


 はいはいリップサービス。


「俺も天才的なタイミングで外勤入れてるお前のこと、嫌いじゃない」


 いやぁちょうど休憩したいと思ってたんだよ。コーヒーなんて1杯どころか3杯でも4杯でも飲んでくれ。


「そういうこと、軽々しく言わない方がいいよ」


 彼女はぷいっと顔を逸らすと、外出の準備を始めた。

 俺が持っていくのは……名刺と社用車の鍵くらいでいいか。


 適当に鞄に放り込んで革靴へと履き替える。

 普段会社内では楽なスリッパだから、革靴を履くと背筋が伸びるのだ。外に行く以上、まともな社畜顔を取り繕わなければならない。


「んじゃ、先行って車開けとくわ」


 周りの同僚達に席を空けることを伝えて、早々に部屋から出る。

 無論、いつもより足取りは軽やかだ。


「ちょっと待ってって、私も行くから」


 桜河はそう言うと、カツカツと足音を鳴らして小走りで近付いてくる。

 バインダーと鞄を抱えながら俺の隣に並ぶと、浅く息をしながら彼女は苦言を呈する。


「まったく、こういう時だけ調子いいんだから」






◎◎◎

いつからヒロインが1人だと錯覚していた。

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