第四章:7
「中まで上がんなよ」
クユルは居間まで続く廊下の途中で振り返ると、玄関に留まる俺へと首を傾げた。
「いいよ、ここで」
「着替えんのに狭いっしょ。荷物も置いてくんだし」
じゃあ……と呟いて靴を脱ぎ、クユルに続く。久しぶりに居間まで上がる。見上げないようにと意識すればするほど、視界の端で捉えてしまう。クリーム色の天井。そしてもともと備え付けられているのだろう、天井へ固定されているハンガーラック。パイプのような鉄製のそれは、冷たく光を反射させていた。お母さんが亡くなってからも居間へ入ることは何度かあったが、その度に無意識に視界に入れては、冷たい存在を確かめてしまうのだった。
お母さんが普段使っていた茶色いショルダーバッグ 。その肩掛け部分を引っかけて
四人掛けの椅子が収まるダイニングテーブルがある。机上には酒の空き缶がこれ以上置き場のない程に転がっており、隅には開けられているのかもわからない封筒が積み上げられていた。住人としてももはや机本来の機能は果たせないと考えたらしく、その横に座椅子と折りたたみのローテーブルが置いてあった。こちらの机上には灰皿と、吸殻。ダイニングテーブルの半分ほどしかないこの窮屈なテーブルを普段使いとして採用している、歪な日常を想像する。
「片づけても片づけても、すぐそうなんのよ」
クユルがこちらを見ないまま、俺の前を横切る。居間と襖で仕切ることで出来る、もう一つの部屋へと入っていった。寝室兼、衣類を収納している部屋のようで、それを知ったのはお母さんが亡くなった後のことだった。以前は襖が締り切っていて中を見たことすら無かったのだが、今となってはその襖は取っ払われて壁に立てかけてある。居間と繋がり、一つの大きな部屋になっていた。
クユルが衣類棚の引き出しを開けているのを目で追うと、棚の上に置かれた写真立てが視界に入った。柔らかく微笑む、お母さんの写真。その横に、コップが置いてある。随分前に、仏壇代わりにしているのだと悟った。
「うい」
クユルが居間に戻ってきて、長ズボンを差し出す。
「ありがと。何着も悪いな」
「いいよいいよ。カナメが傷だらけで帰ってきたら、ばーちゃん、気ぃ失っちゃうわな。そら確かにまずいわ」
ばーちゃんに殺されちゃうよ、とクユルは笑った。親父さんへの濁った感情を吐露することはあっても、その暗さを、クユルは長引かせない。これほどの闇を抱えていても、その陰の一つすら俺以外に見せることはなかった。それは優しさなのか、プライドなのか。どちらにせよ、そんな姿を見る度に強い奴だなと思う。
着替えている間、今更ながら昼飯を食べ損ねていることに二人して気がついた。クユルは「煙草さえ吸えればなんとか」と理解し難いことを抜かしていたが、馬鹿を言うなと一蹴し、親父さんにコンビニへ寄って貰えないかと交渉することにした。
今回は太陽が出ている上身体を動かす内容なので、キャップを被るだけに留め、上は半袖のままで向かう。手ぶらで家を出て階段を降りていくと、親父さんが携帯を耳にあてていた。俺たちを見るなり「まーその話は後だな、後。ちょっと今はアレだわ」と早口で電話口へ告げながら、車を指差し『乗れ』と合図をする。応じると、間も無く親父さんが運転席に乗り込み、車が発進した。
今日も機嫌が良いのか、運転している最中親父さんはずっと鼻歌を歌っていた。昼飯のことを伝えると「先に言ってくれたら買ってきたのにー」とすぐ近くのコンビニへ停まり、気前よく五千円札を渡してくれた。流石にこの額は受け取れないと困っていると、横からクユルがかっさらい、昼飯以外にこれ見よがしとハーゲンダッツを二つ買っていた。
「お前の贅沢って言うのは、可愛いもんだな」
車内にて親父さんに鼻で笑われ、クユルは不機嫌そうに口を尖らせながら弁当を頬張っていた。俺の中でも贅沢というと同じ選択をしていただろうと苦笑いを浮かべながら、本日二個目のアイスにスプーンを刺し入れた。
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