第四章:6
そう言うクユルは、尚の事、あの父親とはもう暮らせないと続けた。自分は死んだ方がいいのではないかと言っていた時のものとは違い、芯のある声だった。
今すぐにでもこの地獄から抜け出したいだろうに、クユルは「でも中退して速攻一人暮らしは、流石に厳しいよなぁ」と呟いた。
「へぇ。意外と冷静じゃんか」
「あんなにキレられたら、俺だって冷静になるわ」
クユルは自ら乱した頭髪を手櫛で整えると、ふと俺の顔を見て「冗談だよ」と笑う。
「さっき”母さんの生き様が正しかったことを証明しろ”って言われてさ、確かになぁって。……うん。だから、まぁ、ヤケクソになるのは違うかなって」
「ん、そうかい」
感情任せに吐き出した自分の言葉を思い出し、今更になって襟元が熱を持つ。そしてそれを素直に聞き入れているクユルに対しても、なんだかじっとしていられないくすぐったさを感じた。
「――ああ。働こうかな。金貯めてさ。んで卒業したら、即この家を出るわ。二年と半年。その間にアイツから仕事をとれば、なんぼか貯まるだろ」
「……お父さんから?」
思わず聞き返した。親父さんの仕事については、中学に上がったあたりからクユルがぽつぽつと話すようになっていた。その”仕事”は、いつも内容が決まっているわけではなく、ほとんどのものが怪しい業態であること。報酬が正規のバイトとは比べ物にならない額であること。学校を辞めて一緒に手伝えと親父さんから誘われていること。それに対して、お母さんがとても嫌がっていること――。
『バイト』とは呼ばず『仕事』という言葉を使い、不穏な印象から遠ざけようとするアイツの浅ましさが鬱陶しいと、愚痴をこぼしていた記憶もある。
そのクユルが、あの父親から仕事を“もらう”など……。
「ここは割り切るよ。アイツがクソなのはどうしようもないから。いっそのこと、そのクソさを利用させてもらうってことで」
俺の表情に対してクユルは答えた。吹っ切れたようなクユルの態度に不安が拭い切れたわけではなかったが、言うなら今なのだろうと思い、口を開いた。
「じゃあ、一緒に東京行かね?」
クユルは抜けたような声で、へ、と小さく漏らした。一度たりとも話にあげたことはなかったが、ずっと考えていたことだった。
「東京の大学に行くつもりなんだわ、俺」
「……地元のじゃなかったん?」
「ここは交通の便が充実してて、俺にとっては都合悪いのよ。大抵の大学は家から通えちゃうから下宿するにも言い訳が立たん。だからもう、通えない距離に行くとなると県外なんよな」
「そんなん、ばーちゃんが許すんか」
「まだ言ってない。言ってないけど、県内の大学よりレベルの高いとこを目指せば、絶対に許す。俺に箔がつけば、ばーちゃんはそれでいいんだ」
俺がここまで家を出たがっているとは思っていなかったのだろう。クユルは軽くのけぞると、大きな目で何度か瞬きをした。
決して、強引に誘いたいわけではなかった。タイミングとしては彼が弱っているところに付け入るような形になってしまったが、仕方がない。残念なことに俺たちは、真面目な話をいつだってできるほど大人になっちゃいない。
「東京はいろいろと高いけど、二人で住みゃ多少の節約になるだろうよ。……でも、クユルにとって」
「行く」
断りやすいようにと続けた俺の言葉を断ち切って、端的にはっきりと、クユルは言った。そしてもう一度「俺も行く」と繰り返した。
この時、自分の中で浮ついた感情が一切湧いてこなかったのが、意外だった。誘ってみようかと考えていた時は仮に来てくれたらそれは嬉しいし、一緒に暮らせたら楽しいだろうとも思っていた。それなのに、現実として返事を聞いた途端、急速に冷静になっていく自分がそこにいた。腹を決めたという言葉が近かったように思う。
「奨学金借りる予定だけどそれでも間に合わないだろうから、俺も大金が要るんだよなぁ。だからさ、そのお父さんからの仕事、一緒にやりたいんだけど」
快諾されるはずがないとわかってはいた。けれども、クユルが”あの父親”から”あの仕事”をやると言い出した以上、これは絶対だった。
「なんで?なんでカナメもやるんだよ!こんな犯罪じみたこと――」
「それじゃ遅いだろーが。だからクユルも――」
俺たち二人で、ここを抜け出すのなら。
なんとしてでもクユル一人に、あの仕事をさせてはならない。
――そして渋るクユルを説得し、捕まる確率を少しでも下げられるようにと徹底した決まり事を設け、時にはそれを変えていきながら仕事を行うようになった。
クユルは親父さんから仕事を貰っているが、だからと言ってあの人の所業を許したわけではない。むしろ日を追うごとに憎悪がより深く、より濃く、そして形を持つかの如く膨らんでいるように見えた。
もともとあった親父さんに対する反抗心や嫌悪感、軽蔑などといった負の感情。それらがお母さんの一件以来、強い憎しみで研がれ続け、今や殺意というナイフになっている。その鋭いナイフが親父さんの挙動を反射させ、不意に存在を放つのだった。抜き身のナイフがぎらりと反射するたびに、クユル自身も傷つき、血を流している。ナイフそのものがクユルを覆う、呪いのようにも思えた。
――そして今。そのナイフがまた、クユルの中で刃を光らせている。『その格好では怪我をする』というクユルを気遣う親父さんの言葉によって、癒えてもいない傷が刃で抉られ、心から血が流れている。
「今更、どのツラ下げて言ってんだ」
玄関で靴を脱ぎながら、クユルが吐き捨てた。背中からさまざまな感情が滲み出ていたが、最終的には彼が呟いたことが、全てだったのだと思う。
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