第四章:5

 俺は相槌すらも打たないで、ただ、聞いていた。俯いたクユルの顔はどんな表情をしていたのかわからない。けれども、一つの言葉では言い表せない感情に、今、クユルが圧死しそうになっていることだけはわかっていた。




「よくよく考えれば、こんな簡単なこと……。それなのに、俺は」




 もはや俺に向けたものではない言葉が、こぼれていく。




「……そうだ。俺だ」




 紡がれていくクユルの言葉に、違和感を覚えた。

 その違和感は少しずつ確信に変わっていき、同時に、冷気にさらされたかのように心臓が冷えていった。





「俺のせいだ」





 産毛すらも逆立つ感覚。

 血の気が引いていく。




「アイツは頭がおかしいから、母さんにとって、俺だけが頼りだったはずなのに。俺が気づいてたら……。もっとちゃんと、母さんの言葉を聞いてたら」



「――何言ってんだ。違う」



「違わないだろ。そうだよ。俺だよ。俺が」



「おい。聞けって」



「……俺、生きてていいんかな」



 震えていたクユルの声が、ぷつりとなにかが切れたかのように一定の音になる。恐ろしさすら感じるほど、機械のような声。



「母さんが嫌だと思ったこの世界で……。逃げたいって思ったこの世界で。俺、生きていいんかな」



「クユル」



「俺が生きていくこと自体が、それこそ、母さんへの裏切りにならんかな」



 気づいた時には、身体が階段を駆け上がっていた。力任せにクユルの肩を掴む。その反動で見上げる形で動いた彼の顔は、驚く素振りもなく、感情を失った無表情がそこにあるだけだった。クユルの視線は俺から外れており、焦点が合っていない。生きることへ投げやりになっている、温度を失った目。鼓動が早まる。



「お前、ふざけんなよ」



「だってそうだろ。母さんのことに気づけなかった俺が、母さんが逃げたいと思ったこの世界で、アイツと一緒にのうのうと生きるなんてさ。母さんへの裏切りだ」




 冷たい汗が背中を伝う。

 クユルの肩を掴む手が震える。

 自分の心臓の音がすぐそばで聞こえる。




 まるでもう、この世に向ける言葉は無いかのように、クユルの口が小さく動いた。




「俺、もう死んだ方がい――」



「いい加減にしろ!これ以上、お母さんに業を背負わせるな!」




 クユルの瞳が、こちらを向いた。




「なんだよ『死んだ方がいい』って!お前が死にたいだけだろ!そんなつもりなくても、お母さんのせいになってんだろうが!お前のやろうとしていることは、そういうことだ!」




 怒鳴りたいわけじゃないのに。

 こんなの、会話じゃないのに。


 こんなに傷ついて、壊れそうになっているクユルに向かって。

 優しく、寄り添うように、諭すように。

 もっと言い方があるのに。


 いや、そもそも、今はクユルの話を聞くだけでいいはずなんだ。あんな親父さんと二人きりなんて、今のクユルには良くないだろうって。だから俺は、クユルに連絡をとって……。




 その想いに反して出てくる言葉を、止めることが出来ない。理性よりも感情が先走る。




「お母さんが死んだのを理由にクユルがクユルの人生を諦めたら、お母さん、死んだ後も楽になれねぇだろうが!お前は絶対に死んじゃ駄目だ!幸せに生きなきゃ駄目だ!」





 俺は、クユルのためを想って言っているのか。


 クユルのお母さんのためを想って言っているのか。







 ……違う。



 俺だ。俺のためだ。


 俺がクユルを、この世界に繋ぎ止めておきたいんだ。






「お前は証明しろ!お母さんが生きていたってことを証明し続けろ!あんなに優しくて良い人、他にいねぇんだろ!あいつが頭おかしいんだったら尚更だろうが!クユルしかいない!悪いと思うなら、生きて償え!クユルがお母さんみたく優しくて良い人になって、生き続けて、幸せになって、お母さんの生き様は正しかったんだって証明しろ!」





 俺の思う『良い人』たちが、

 割を食う世界を、

 受け入れたくないだけなんだ。





 クユルは能面のような表情を変えて、唖然としていた。目を大きくし口を半開きにして、何も言い返さず、怒鳴り散らす俺をただ見つめていた。



 人に向かって感情的に、ましてやこれほど大声を出したことなど今までに一度もなかった。言い終わる頃には走ってきたのかというくらいに息が乱れていた。威勢良く喚いた割には体力が追いついていないことに、締まらないなと俯瞰している自分がいる。そして、こんな状況でも一歩引くような自分自身に腹が立ち、八つ当たりに近い形で「なんとか言ってみろよ」とクユルを見下ろした。




「ごめん」



 クユルは、うわ言のように呟いた。



 肩から手を離す。俺は一体何しに来たんだと自己嫌悪に陥りながら、気まずさから逃げるため階段を降りた。

 背後から俺を呼ぶ声がして振り返ると、落ちかけた夕陽に照らされて、クユルはオレンジ色の光に縁取られていた。逆光でよく見えなかったが、彼は泣きそうに目を細めて、そして、照れ笑いを浮かべていたような気がする。



「ありがとう。俺、優しくて良い人になるよ」

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