第四章:2
玄関から真っ直ぐ、一本の廊下が続く。突き当りには居間と隔てる扉があり、それは中途半端に開け放たれていた。
その姿は、今でも脳裏に焼き付いて、離れない。
向こう側、扉のすぐそばに、クユルのお母さんはいた。
椅子に引っかかった片足は膝が曲がっており、もう片方の足は完全に浮いている。その真下にはバスタオルが何枚も重ねられていた。
扉上の数十センチ下がった壁によって、鎖骨あたりから上が隠れていた。どのようにして縄が繋がっているかは見えない。胸元より前にずれた空間から黒髪が垂れているのが、顎が鎖骨に付くほど俯いていている体勢であることを示していた。
浮いている足元を視界に入れなければ、あり得ない程"身長の高い"人間が不気味に立ち尽くしているようにも見える。微動だにせず、ただそこにぼうっと、身体を伸ばして……。
本能が叫んでいる。これはもう、生きているものではない。死んでいる細胞の塊がぶら下がっているだけだ。
これを。
鳥肌が立つ程のこの恐怖を、
一人で対峙したのか。
振り返り、クユルを見る。怯えたように見開き、下唇を噛んで、俺を見つめていた。
この時までの俺は自分自身の感情がぼやけたまま、わけもわからず身体が勝手に動いていた。けれどその時にはっきりと、感情の輪郭を捉えた。
俺はこの恐怖を、クユル一人のものにさせてはいけないと思ったのだ。
クユルが発見した時のように、何気なく扉を開けて突然視界に入ったわけでも、ましてやそれが自分自身の母親であるわけでもない。彼が受けた衝撃そのものを、俺が受けることはできない。
それでも、クユルを襲った感情の端でもいいから俺は知らなければならないと、身体が動いていた。肋骨を揺らす心臓を感じながら、そんな自分とは比にならない程壊れそうになっている人間が目の前にいることをもう一度確かめて、言う。
「人が来るまで、俺もここにいる」
彼は目の焦点を合わすことなく頷くと、玄関まで入らずに、糸の切れた人形のようにその場に座り込んだ。膝をかかえ俯くその横に、俺も胡座をかく。クユルの立場に少しでも近づくのならもう一つ先の扉まで行くべきなのだろうが、玄関から先に足を踏み入れることができなかった。おかしな感覚だと思うが、ここから先はクユルや親父さんにしか入ることのできない、"聖域"に近いものを感じていた。
いろいろなことが頭の中に過ぎるも何一つまとまらないうちに、聞き慣れたサイレンが、聞き慣れない距離まで近づいてきた。
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