第四章
第四章:1
――家で、首を吊って……。
音が遠くなり、冷たい液体が血管を巡っていく。世界の色が失われていき、真っ白になって消えていった。これはタチの悪い冗談かと過ぎるも、クユルの異常な様子に、すぐに思い直した。初めて見る表情。初めて聞く声。これは取り返しのつかない事実なのだと、冷静に判断している自分がいた。
クユルのお母さんが、
家で、
首を吊っている。
そこを紙一重のところでクユルが発見して、命からがら助かった、という話ではないのだろうか。それとも俺たちがこうしている間も、あのお母さんは縄に首を食い込ませ、吊られているのか。
頭の中へ次々と映し出される断片的な優しい記憶。クユルに向けて微笑んだ時の少し細まった綺麗な瞳。「いつでも来てね」と頭を撫でてくれた時に香った、甘く優しい匂い。俺の眼下に出来た濃い影を指先でなぞり、微かに作った悲しそうな表情。その温かい記憶へ
「どうしよう。俺、訳わかんなくなっちゃって、ここ……」
クユルの声に身体の感覚が引き戻される。改めて目の前にいるクユルへと意識が向く。大きな瞳が激しくちらついている。肩で呼吸をして、喘ぐように話している。
夢を見ているような心地の中、無意識に身体が動いていた。部屋へ携帯を取りに戻り「ちょっと出てくる」とだけ告げ、背後から祖母が早口で言ったことを無視する。玄関に戻るとクユルはしゃがみ込んで項垂れていた。肩を叩き、声をかける。
「警察と救急車は」
「……え?警察?……え……」
「わかった。俺が電話するから、このまま家帰ろう」
「家?い、家?あそこ行くん?」
「うん。俺も行く。――クユル、大丈夫だ」
「え。……あ。……ごめん、本当にごめん」
「謝んな。何も謝ることない。大丈夫だから」
早足で向かう。警察に連絡をしている間、クユルの背中を掴んでいた。なぜそう思ったのかは今でもわからないが、掴んでおかないと、手の届かないどこか遠い場所に行ってしまいそうだった。そして、それは俺自身のためでもあった。左手に伝わる覚えのない体温から、クユルが生きているということを感じていたかった。
背中を押されるようにして歩くクユルは、片手で口元を覆い、ずっと独り言を呟いていた。電話口との会話の合間で、携帯を当てていない耳に意識を向け、その言葉を拾う。「わかんねぇ」「俺がもっと早く」「アイツが昨日」などと、支離滅裂なことを言っていた。
見慣れた外階段が視界に入り、付近を見渡す。パトカーや救急車が停車していないことに焦燥感が募った。鼓動が激しく、息が苦しい。二階にある左から二番目の扉を見上げた。視線はそのままに、何を確認したいのか自分でもわからないうちに「クユルは見たんか」と口走っていた。
「え……、うん」
声に、困惑の色が見える。俺は無言で階段を上っていく。クユルが何かを言っているが頭に届かない。先程見上げた扉の前に立つと、程なくして後を追いかけてきたクユルが、視界の端に入った。俺の横顔を見つめているのが気配でわかる。彼の戸惑いが伝わり身体の右側がじりじりと痛んだ。嫌なら力ずくで引き剝がすだろうと委ね、ドアノブに手をかける。
そして俺は、
クユルの母親の死体を見るために、
扉を開けた。
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