第三章:9

 相変わらず蝉の鳴き声が塊となって降っている。日陰とは言え、もはや空間が熱く、汗が止まらない。リュックからタオルを抜き取り、首にかけ、眼鏡を外した。前髪を振り分けるように額をタオルで拭いていると、クユルが「どれだけ目ェ悪いん?」と聞いてきた。フレームを簡単に拭き「こんなもん」とクユルに向かってそれを渡す。差し出した手はそのままで、クユルの反応を見ないうちにタオルを顔に押し当てていると、暗闇の中で眼鏡が手から離れていく感覚がした。



 「……ん?え、俺、眼鏡かけたことないからわかんねー。これ、合ってる?ちゃんとかけられてる?」



 まさかの発言に笑いが溢れた。顔を上げると、眼鏡をかけて忙しなく見回しているクユルがいた。その姿に、整った面は何をしても似合うのだなと感心させられる。



「何言ってんの。眼鏡のかけ方に間違うも何もねーだろ。それで合ってるわ」


「いや、だって。眼鏡ってこんなもんなん?」



 ああ、なるほどと合点がいった。彼が困惑するのも無理はない。視力の良い人間が度の入ったレンズを通して見れば、その度数が高い分、世界が歪んで見えるのは当然だ。

 そんなことはクユルだってわかっているのだろう。だからこそ、彼は戸惑っている。



「それ、度、入ってねーんよ」


「……は。え?あ、伊達眼鏡?」


「あー、まあそうね、伊達眼鏡」



 手を伸ばすと、クユルもそれに応じ眼鏡を外し、手渡される。それを受け取り前髪を上げた状態で眼鏡をかけて、生え際を指先で払うようにして前髪を散らす。

 クユルの視線を感じたため、答えた。



「前髪が目に刺さんねーようにさ」


「それで眼鏡かけてんの?マジで?」


「その為でしかない。俺、裸眼で一.五以上あるから」


「勉強しまくってるから視力落ちたんかと思ってたわ……」


「な。なんか目だけはめっちゃ良いんだよな」


「へぇ。ここ半年くらいの話だよな、眼鏡」


「ああ、そうか。そうなるか。もう相棒だよ」



 消化不良、と言った沈黙。聞きたいことが伝わってくる。それでも俺は答えない。クユルはこれ以上、それを口には出してこないだろうから。




 クユルが俺の名前を呼ぶのと同時に、蝉の騒音の中からエンジン音とコンクリートをすり潰す音が近づいてきた。止んだと同時に車の扉が閉まる音が響く。二人で顔を見合わせ、階段下から出ると、案の定親父さんがそこにいた。



「おう。ああー、枢君、今日もありがとね。助かるわオジサン」


「いえ、僕も助かってます。金欲しいんで」


「枢君って見かけによらず野心家だよね。燻も良い友達持ったなぁ」



 本日も上機嫌といった親父さんは、額から噴き出ている汗を首にかけたタオルで一拭きした。ふと、真顔になる。俺たちに下から上へ視線を這わせると額に皺を寄せた。


「男だからって、流石にズタズタの傷作っちゃまずいだろうよ!半パンは危ないって。燻、お前も!枢君連れて着替えてきな、はよ」


 親父さんは自分の家の方面を指さしながら顎を振り、行けと合図する。




 別の大人にバレたら厄介だということで、他人の子供である俺を気に掛けるのはわかる。ただ、クユルのことまで気遣う言葉に、内心驚いた。過去に一度だけ、クユルが頬を腫らしてきたことがある。中学生の時だった。歯で切ったのであろう唇が紫に変色しており、見ていて痛々しかった。学校では転んだと言っていたが、俺にだけ「アイツに殴られた」と教えてくれた。お母さんを庇ったのだという。

 暴言と暴力で家庭内を支配し続け、嫁を死まで追い込んだ。そんな男のものとは思えない"親らしい"言葉に、無意識にクユルを見てしまった。クユルは口を真一文字に結んで、目を丸くし、眉を歪めていた。奇妙なものを見るような顔で固まっている。



 良くない沈黙だと察し、クユルに変わって「やっぱり、長ズボンの方がいいっすかね」と答える。親父さんは「あったりまえだろー!暑ぃけど、お前ら長袖長ズボン慣れてるっしょ!」と豪快に笑った。慣れない愛想笑いを浮かべながらクユルの肩を叩き、外階段に向かう。




「なんだあれ」


 クユルが扉の前で呟く。それは静かな声だったが、内臓に響くような重い怒りが滲み出ていた。「機嫌良いんだろ。連チャンだもんな。お父さんの言うとおりだし履き替えようぜ」となだめる。彼は扉に額を預け舌打ちをすると「……そうだな。貸すわ」絞り出すように言い、扉から離れドアノブに手をかけた。




 クユルの気持ちが全てわかるわけではない。

 だが、きっと。

 この世界で俺だけがきっと、

 クユルに一番近い気持ちでいるはずだ。




 一年前の、お母さんが亡くなったあの日。クユルが、インターホンも鳴らさずに引き戸を叩きながら俺の名前を叫んでいた夜。こんな時間に何の用だと文句を言ってやるつもりで開けた時に目に飛び込んできた、酷く動揺したクユルの姿は忘れられない。激しく呼吸を繰り返し、悲鳴に近い、震えた声。今だって、不意に思い出す。




「カナメ!カナメ!来て!

 俺、の、……母さんが、家で……、

 家で、……首吊って――……!」

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