第三章:2

「アイス食おうぜ。コンビニあったよな、奢るわ」


 俺はそう言って自転車のスタンドを蹴り上げた。サドルに跨ると直後に車輪が沈む感覚があり、後ろからお祭り騒ぎといった声が聞こえる。

 煙草を吸うことはクユルにとって呼吸なのだと、それは理解している。ただ、なにも、呼吸法ってのはそれだけじゃないだろう。




 各々選んだアイスを、コンビニの軒下で開封する。木の棒を持ち水色の長方形を一齧りすると、ソーダの香りが鼻を抜け、粗めの粒が口の中で溶けていく。昔、満点のテストを持って帰ってくると時々祖母が買ってくれたアイスで、未だに選んでしまうことがあった。相変わらず美味い。

 クユルはというと俺の横でしゃがみ込み、木製のスプーンでカップアイスをつついていた。つい先程まで冷えていたアイスはまだ固いようで、スプーンの先端が満足に入らず、まさに格闘していた。



 強烈な日光に照らされて、アスファルトに引かれた白線が眩しく反射している。向かいの道路側に植わっている木々の葉が光を弾くように揺れ、雲一つない空にはアイスよりも深い青がどこまでも伸びていた。その青に迷いもなくサインペンで線を引いたように、電線が横切っている。


 全てが色鮮やかに見えて、どこか落ち着かず、視線の置き場がわからない。平日の昼にも満たないこの時間はコンビニを利用する人間も少ないようで、駐車場にも車が二台停まっているだけだった。

 あぁそうか。俺はこの時間の外の景色をあまり知らないのか。

 落ち着かない理由が判明し、それに伴って湧き出てきた背徳感で、今更ながら少しだけ胸が高鳴る。




「カナメはさ、大学、昔のテーダイ?ってとこの、なんか難しいとこ行くんだろ。どんな調子なの、今」


 不意にクユルが訪ねてきた。見ると、つい先ほどまで格闘していたアイスはこの暑さで既に柔らかくなったようで、彼はカップの側面から掬い取っていた。

 


「どんな調子……、まぁ、ぼちぼちかな」


「俺受験とかわかんないけど、受験生になるって来年なんでしょ?でも、もう今から準備するもんなん?」


「いや、今からっていうか。一生準備してるよ。準備し続けてる人生だわ」


「じゃあ今もずっと勉強してるんだ」


「ずっと勉強してる」


「すげー……、ホントすげーよ。勉強好きだったらまだわかるんだけどさ、カナメ、確か勉強好きじゃなかったよな」


「うん。ありゃ駄目だね。ここまでやっても好きになれないなら、もう多分今後も好きになれない。仲良くなれそうにない」


「ばーちゃん、まだ厳しいの?そういうとこ」


「高校入ってからは自分から長いこと机に向かってるし、成績に満足してんのか、最近はだいぶマシになったわな」


「……あ。じゃあ今はアレ、飯抜きとかないん?」


「あったなそんなことも。飯抜きな。出してくれる出してくれる。……あれなー、何時間勉強したらとか、何ページまで解いたらって決まってたらまだいいんだけど、毎日ばーちゃんの裁量で変わるっていうか。気まぐれなんだよな」



 くくくと笑いを押し殺すようにクユルが喉を鳴らし「なんだっけ、ほら」と促してきた。始まったと勘付いたが、この話は久しぶりだし、なにより随分と楽しそうにするので乗っかることにする。

 

「カナメがさ、飯食うために勉強した時間の、最高記録は?」


「ばーちゃんが寝るまで」


 俺の返答を聞くと、待ってましたと言わんばかりに彼は声をあげて笑い始めた。



「それ。もうさ、ばーちゃんさ、ぜってー忘れてたって。飯抜きで勉強させてるってこと。カナメには悪いけど、俺、その話好きなんだよなー」


「笑い事じゃねーよ。その日なかなか飯くれなくて、ここまでやったら流石に食わしてくれるだろうと思って。びっしり書き潰したノートとか、複製した穴埋め問題解きまくった紙持ってさ」


「うん、うん」


「夜中……一時くらいだった気がするけど。『まだ足んないわ』って怒られる可能性もあるわけだから、恐る恐る自分の部屋出てさ。そしたら、廊下も居間も台所も、真っ暗よ。全部電気消えてんの」


「そこで聞こえてきたのは?」


「ばーちゃんのイビキ」


「ひぃ、ひぃ、笑いすぎて腹痛い。切なすぎる。

 あぁ、じゃ。じゃあさ。テストの点数低かったら、靴ベラでぶん殴られるのも、もう減った?」


「それも中二くらいん時に無くなったし、靴ベラじゃなくて”まごの手”な」


「まごの手!まごの手だっけか!ばーちゃん、意外といかついよなー!」

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