第三章

第三章:1

 俺は荷台にクユルを乗せ、彼の私物である自転車を漕いでいた。

 今朝は散々だった。やるしかないと覚悟を決めて水筒まで持参し徒歩で駅まで向かったが、早朝とは言え尋常じゃない暑さに気力が炙られ、すっかり何もかも失せてしまった。シャッターの落ち切った店の陰で涼むことにして、これからまた家に戻るのかとうんざりする。ふと気が向いたため、携帯を取り出し、クユルにメッセージを送る。



『自転車必須。もう今日学校行かん。買えないと不登校になる』



 すると数分後に着信が入った。出るや否や「え!なになに、学校休むん?わっるい奴だなー!いやぁ、もぉ、しょーがないから俺も付き合っちゃおっかな!今どこよ?すぐ行くわ!」と意気揚々に捲し立てる、クユルの声。予想外の展開に動揺しつつもお前は登校しろという旨を懇々とと伝えたが、電話口からの浮足立つ声に結局流され、居場所を伝えることとなった。その二十分後、Tシャツに半パン、サンダル姿の、俺は断固として学校に行かないと言わんばかりの格好をしたクユルが「よう、不良少年」と楽しそうに笑いながら、俺の目の前で自転車を停めた。そんなクユルを見て、つられて笑ってしまう。そうして今、自転車を借りて、少年のようにはしゃぐクユルを後ろに乗せている。



「つーか、こんな朝早くから自転車屋ってやってんのかい」


「十時とか?せめて九時とかかな。まだやってないだろうなぁ。

 ……てか、カナメ、着替えたら?制服じゃ目立っちゃうんだけど」


「家にばーちゃんいるから帰れないんよ。学校サボるなんて言ったら、ばーちゃんぶっ倒れちゃうんでね」


「だと思ってさー!カナメの分の服も、ちゃーんと持ってきました!」


「マジで?」


「マジマジ。俺を褒めろ」


「お前は天才」



 公園の公衆トイレでクユルの私服に着替える。体形はさほど変わらないためサイズは全く問題なかった。腕を通す前から予想はしていたが、曇った煙草の匂いがする。それよりも違和感を抱いたのは、煙草の匂いよりも強く感じた、柔らかく甘い香りだ。

 急激に、クユルのお母さんの姿を思い出した。今ではすっかり自分の母親へ思いを馳せることは無くなったが、クユルのお母さんに対しては、未だに心臓が縮んでいくような切なさを感じる。



 クユルの目。あの目尻が優しく下がった大きな瞳は完全にお母さん譲りで、なのでまぁ、とても綺麗な人だった。同級生の親と比較してもかなり若い方だったと思うが、しかしどこか幸の薄そうな、疲れた笑顔が似合う人でもあった。当然何度も会ったことがあるし、会うたびに「いつも燻と遊んでくれてありがとうね。これからも仲良くしてね」と微笑んでいた。はっきりと言葉に出されたことはないが、両親のいない俺を気にかけるような素振りを何度か感じたこともあった。優しく、良い人だったと思う。


 ……いつもそうだったわけではないはずだ。それなのに、思い出すその優しい顔にはいつも黒々とした痣が、場所を変えて染みついていた。俺たちが中学生になり暫くすると減っていったその痣を、俺は、どうしても脳内から消すことができなかった。



 あの人が今も生きていたら。クユルのそばにいたのなら。クユルが存在しているこの世界で、よりにもよってあのような選択をしていなければ。クユルは、今の彼とはまた、違っていたのだろうか。

 だとしたら。それでも俺はクユルと、今のような関係を築けていたのか。




 ……いや、そんなことを考えるなんて。まるで……。




 最低な自分から逃げるために強く息を吐き、制服を簡単にたたみながらトイレから出る。「なんかめっちゃ良い匂いするんだけど。男二人で生活してんのにどうなってんだよ」と伝えると「ああ、だろ。柔軟剤ね。俺その匂い好きなんだよね。この前もっとその匂いが強く付かないかなって大量に入れたら、洗濯終わってもベッタベタでさ。何事も欲張っちゃ駄目だな」と難しそうな顔をして大袈裟に頷いていた。笑える話として彼は喋ったのだろうが、俺は、馬鹿だな、としか言えなかった。匂いというのは記憶の中でも特に強烈に残る情報なのだと聞いたことがある。きっとそれは、本当だ。




 適当に小さくした制服をリュックに突っ込んでいると、クユルがペットボトルの蓋を開けながら「学校にはなんて言ってあるん」と訊ねてきた。



「俺から連絡してある。体調悪いって言ってさ、本当にあの時気分悪かったし。俺ぁ優等生だから、いちいちばーちゃんが電話しなくても一発で信じてもらえたわ。クユルこそどうごまかしてんの」


「学校行かねーっつって、家出てきたよ」


 クユルにつられて麦茶を飲もうと水筒に口をつけたところ、吹き出しそうになった。潔い解答に笑いながら、飲む前でよかったと思う。



「うん。まあ。お父さん、許しそうだよな」


「学校から電話かかってきても適当にやってくれるだろ。アイツ自身、あんなとこ行く意味ねーって言ってるし」


「多様性でフレキシブルな時代だからな。お父さん最先端いってるな」



 クユルは鼻で笑うと、人差し指と中指を立てて空を切るような動作をし、俺を見た。「バッカ。こんなとこで吸おうとすんじゃねー」と呆れて戒めると、彼は肩をすくめて笑った。

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