第二章:9
「ぁあ?今お前なン」
まずい、と俺が顔を向けた頃には既にクユルは歩き出しており、ドスを利かせている最中の男の顔面を思いっきり殴りつけていた。男は潰れた声を出しながら鼻と口元を両手で押さえ、覚束ない足取りで後退りする。しかし、その肩をクユルが握り掴み、許さない。クユルは左足を前に踏み込んで腰をひねり、肩から入れるような拳で男の鳩尾を突き上げた。嘔吐のような声が響く。それに構うことなくクユルは間髪入れずもう二発、鳩尾を殴りつける。堪らず膝をついて崩れ落ちる男の髪を鷲掴みにし、更に顔面を殴りつけようとしたところで、間に身体を入れて叫んだ。
「おい!やりすぎだ!」
「だって、」
「だってじゃねぇ!もう行け!あっちでもう一本吸ってこい!」
怒鳴りつけるも、不貞腐れた子どものように上目遣いで見つめ返してくる。クユルの振り上げた拳はそのままで、男との間に立つ俺はいつ殴られてもおかしくない状況だったが、それでも二人の間から離れなかった。それは殴られてもいいと覚悟を決めているわけでも、クユルの拳を避けられる自信があるわけでもない。
クユルは絶対に俺を殴らない。
それをただ、知っているだけだ。
数秒間睨み合っていると、瞬きした瞳が俺を捉えるのをやめ、途端に伏せ目がちになる。振り上げていた拳を解きその手を口元にやると、煙草の先を明るくさせた。頭髪を掴んでいた手も緩めたのか、俺の背後で男が倒れ込む音が聞こえる。一瞬その音に気を持っていかれている間に、クユルは背中を向け、この場を離れていった。
すぐさま男の様子を確認する。唇と鼻から血を流し、やはり内臓に効いているのか唸りながら身体を丸めて地面に転がっている。のたうち回る男にいくつか言葉をかけて「すんませんが、お疲れ様です」と切り上げ、クユルが消えていった方に駆け足で向かった。
クユルの凶暴性には幼いころから何度か対峙している。と言っても同級生に対してそのような一面を出すことは一度もなく、見ることが増えたと感じたのこの仕事を一緒にするようになってからだった。以前、何度目かの暴力沙汰の後「帽子、深く被ってんじゃん。それで視界が狭まくなってさ。こう、ぐわーってなって、なんか、キレやすくなっちゃうんだよな」とバツの悪そうな顔をしていた。
もともと同級生の中でも運動神経は良い方で、加えてあの親父さん譲りなのか、腕っぷしの強さもあるように見えた。とは言え筋骨隆々という言葉では大袈裟で、筋肉質ではあるものの普段から鍛えているわけでもなく、秀でて身長が高いというわけでもない。それでも、年上の男と喧嘩になってもクユルがノされているところを見たことがなかった。
彼の恐ろしさは、体格や腕力とは別のところにある。
「やりよったな、おい」
うんこ座りをして煙草をふかすクユルに言葉を投げると、彼は「あぁあ、もぉお、ホントごめん!」と項垂れた。
「どうにかなんねーのかよ、そのキレやすさ。いや、キレるのはいいけど、あの暴力のラッシュよ。マジで相手死んじゃうって」
「そうだよね、死んじゃうのはまずいよね」
「まずいわ。人殺しちゃったらお前ムショじゃん。一緒に住めんだろ」
「まあ、でも、いつもカナメが止めてくれます故……」
黙って睨みをきかすと彼は「嘘です」と呟き、気まずそうに俯いて煙草を咥えた。
卒業したら二人で住むことは、一年前、クユルのお母さんが亡くなった時に一緒に決めたことだった。クユルは進学する意思はなく、高校を卒業したらできるだけ早く金を貯めて家を出たいと前々から言っていた。俺も奨学金を借りつつ一人暮らしをする予定であったため、二人で住んだ方が節約になるのでは、ということだ。
その生活を始める時点でそもそも金が要ると、この仕事を始めた。クユルはそのずっと前から親父さんより手伝えと言われていたようだったが、お母さんが時には泣いて止めていたらしい。クユルは心優しい奴だが物事の善悪自体には割と関心がないようで、お母さんが生前嫌がっていたという点には躊躇いがあったようだが、結局割り切って稼ぐことを選んだ。どれもこれも犯罪紛いな仕事ばかりだ。どんなツテがあればこれほどかき集めてくるのか興味がないこともないが、触れると大火傷しそうなので、親父さんにはおろかクユルにも聞いたことがない。
「――はぁ。駄目だな。つい手が出ちゃうんだよな。殴っていいやって、思っちゃうっていうか」
「バカ、優しくて良い人になるんだろ」
「……あぁ。うん」
『優しくて良い人』という言葉を出した途端、急激にクユルが沈んでいくのを感じた。凹むのはわかっていたが、クユルがクユルとして生きていくための言葉なので仕方がない。『優しくて良い人になりたい』というのは、お母さんが亡くなった日に刻まれた、彼の座右の銘だ。
「ほんと、そう。またやっちゃった」
「殴っていいやなんて、優しくて良い人は思わねーのよ。まずそれ無くせ」
「俺、やっぱりアイツと同じなのかな」
「あぁ?それとこれとは別の話だろ。同じだなんて思わない。同じじゃねーよ」
「そうか?アイツの血が入っててアイツのいる環境で生きてたら、やっぱり、俺は」
これは悪い方向に沈んでいきそうだと判断し、切り替えるために現金が入った封筒でクユルの肩を軽く叩いた。
「はい。こっちの分の稼ぎ。忘れないうちによろしく」
「えっ、あ、あぁ。おう。了解」
「あと、明日自転車買いに行くだろ。そのお金、俺のから用意しといて」
「ああ、そうね。十万あれば足りるかな?」
「いやいや。どれだけ良い自転車買わせるつもりだよ。二万で十分だわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます