第二章:6

 戯言もそこそこに男は私物の携帯を弄り始めたため、俺もドア側に身体を預け眼鏡を外し、キャップの鍔を目元まで下げた。目を瞑ること数十分、ドアが開く音がする。体勢を整えつつ、かけた眼鏡との間に挟まる長い前髪を指ですくい出した。

 女性が戻ってくるこの瞬間はいつも呼吸が浅くなる。”事が終わった”女性が車内へ入れ込む空気や匂いを、どうにも吸いたくないと思ってしまい、条件反射で身体が動いてしまうのだった。



「終わりました」


「お疲れ様です」


「お疲れお疲れ、大丈夫だった?」


「まあ、はい。……あの、これ」



 先程少女に渡した物が座席横から生えてきたため、極力座席シートに自分の横顔が隠れるようにして受け取る。腕を伸ばした状態で封筒の中から現金を取り出し、枚数を確認する。これは少女の視界にも入れるためで、彼女からは運転席と助手席の間に俺の手元と現金が見える形となる。

 封筒から現金を取り出す前からわかっていたが、数えると本番料金の額が入っていた。返却された物の中からコンドームが消えている。頷く素振りにごまかして頭を振り、自分を納得させる言葉を心の中で呟いて、少女に声をかける。



「……ありがとうございます。確認できました。……あの、すいません。次行けますか?」


「あ、はい」



 淡白な返事に安堵し「じゃあ」と次の目的地を入力するために前へ向き直って、身を乗り出す。すると男が「あ、ごめん、その前にトイレ行きたいっす」と言い出したので、無言で頷き座席へ座り直した。よほど緊急性が高かったのかシートベルトを着けようとした頃には車が発進する。一分もかからない場所にコンビニがあったようでキツく曲がりながら駐車場に入っていき、車から慌ただしく出ていった。エンジンはかけっぱなしになっていたのでナビを操作していると、後方から声がした。



「……あの」



 振り返らないまま「はい」と返事をすると、こちら側に身を乗り出してくるような衣擦れの音がする。



「お兄さん、いくつなんですか?」


「すんません。言えないです」


「……私は言ったのに」


「仕事で必要だから聞いたんすよ」



「ふーん」と不満そうな声がし、「じゃあ」と続く。



「お兄さん、名前、なんて言うんですか。なんって呼んだらいいかわからなくて」


「ないっす」


「へ?」


「仕事ん時、名前ないんすよ。そういうルールで」


「仕事じゃなければいいんですか?じゃあ連絡先、交換してください」



「え」という俺の小さな声を他所に「歳近いだろうし、なんかこういう仕事?慣れているのかなって。心強いから」と、携帯を探しているのか先程とは別の衣擦れの音がし、続いて液晶画面と爪が当たる小さな音が聞こえてきた。


 慣れている、という言葉に思わず鼻で笑う。



「いやいや、俺、手伝ってるだけなんで。心強いも何もないっすよ。あと今携帯持ってないっす。これ俺の携帯じゃないし」


「嘘だ。持ってないわけないじゃん」


「いや本当に。因みに財布もないんで」



 千円札を靴下に忍ばせているだけで、携帯や財布に限らず私物は全てクユルの家に置いてきた。俺の言いつけを守っているのであればクユルも同様で、ここに煙草とライターが追加されているだけだろう。

 太ももを両手で大きく叩き、ズボンのポケットに何も入っていないことを少女に伝える。「……本当に持ってないの?」の言葉に「忘れてきちゃって」と返す。



 沈黙の後、背後から、今までの調子とは違う沈んだ声がした。




「こういうことやってる女とは、連絡先も交換できないってことですか」

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