第二章:2
「ばーちゃん。ごめん。自転車、無くなった」
「あ?無くなったぁ?」
「盗まれた」
「はぁ?鍵は。かけとらんかったの?」
「かけとったけど盗まれた。パンクしとったのに、訳わからん」
「パンクもしとったの?ええ、どうすんのあんた。他に無いがん」
「明日クユルに自転車乗せてもらって、買いに行く」
クユルの名前に、あら、クーくん、と祖母が反応する。クユルは祖母のお気に入りだ。よく家にも遊びに来ていたので、やれお菓子だやれお話だと幼い頃から非常に可愛がっていた。誰もそんなふうに呼んでいないのに、祖母だけクユルのことを『クーくん』と呼ぶ。祖母の終わりのない話にもクユルはいつもにこにこ頷き、程よい相槌、時にはオーバーなリアクションをして相手にするもんだから、祖母の心は完全に掴まれていた。
……いや、祖母に限らずほとんどの人間は、子犬のような丸い目に人懐っこい表情でよく笑う社交的な彼を、好きになる。
――ただ。
光が強ければ強いほどそれに伴って影は色濃く強いものになっていく。クユルの眩しい光の裏側にある、深く濃い闇を、誰も知らない。
「クーくん、元気しとる?」
「しとるよ。明日朝早いもんで、朝ごはんいいから。いつもの時間に出たら電車間に合わん」
「歩いていくん?っはー。まぁた、えらいことするわ」
「あぁ、あと今日の夜、クユルの家で勉強してくるで。七時にあいつ、迎えにくるから」
「ご飯は」
「もう今食べる」
「ほーか。しっかり励みゃーね」
部屋を出ようとすると後ろから「カナくん。じゃあ自転車のお金、どうすんの。いくら」と声が聞こえてきたが、足は止めず「大丈夫だから」とだけ返した。
最近ようやく、金のかかるような話を祖母に言えるようになってきた。それは慣れてきたからではなく、単純に自分の経済力がついてきたために出る余裕だった。これが実の親相手にだったら言いやすかったのだろうかと考えないこともないが、親同然に育ててくれている祖母に遠慮のような気持ちが芽生えるのも、なんだか申し訳ないと思う自分もいた。
今の生活は、祖母の年金と父の保険金で回っている。あとは自分の"こういう境遇"が色々なところで免除を効かせているらしいが、詳しいことはわからない。
来年度には受験の年に差し掛かる。まだ半年以上あるが、逆を言えばもう目の前だ。祖母は俺をそれなりに名前の知れた大学に入れようと随分前から躍起になっているが、それは俺も同じで、奨学金を借りてでも大学には進学したかった。なんだかんだ言っても未だに学歴がモノを言う社会だ。手に入れといて損はなく、別に不要である場所に行くのであればそれはそれでいいのだが、学歴が無いせいで選択肢が狭まるのは避けたかった。現在通っている高校も家からそれなりの距離にあるが、そこへ入学したのも、希望の大学への進学率が一番高かったからだ。
全ては、自由のため。
自由を手に入れる為には金がいる。金を稼ぐやり方は色々あるのだろうが、今の俺にできる準備は名の知れた大学に行くことだった。
自由のために。金を稼ぐために。
今、やれるだけのことをやる。
それは手段は違えど、クユルも同じだ。
家の呼び鈴と共に、クユルの声がきこえた。
「カナメ君いますかぁ」
小学生のような呼びかけに、先程まで眠そうに口の中で煮物を弄んでいた祖母が跳ねるように反応し、はいはいと箸を食器の上に寝かせ、玄関へ消えていく。「俺が出るって」という呼びかけも無視され、玄関の方から「あらー、クーくん、よく来たねー。カナくん呼んでくるからねー」と猫撫で声がする。
「おー、ばーちゃん!久しぶり!
元気しとった?
あれ、え。ちょっと、痩せたんでねーの」
「そりゃあそうだわ。最近暑くてたまらんもんで」
「ええ?いやいや。ほんと気をつけてよ。
家、涼しくしとる?ちゃんとクーラー付けなかんよ」
「ああいう風は、ばぁさんになるといかん。ようやらんわ。扇風機で足りるもんで」
「はぁあ?扇風機ぃ?だぁーめだってぇ!」
クユルの通る声を聞いて、いつもの調子で祖母の相手にしてくれているのだと思いつつ鞄を取りにいく。玄関に向かうと、祖母に向かって柔らかく笑うクユルと目がい、手を挙げた。それに応えてクユルが手を挙げると、祖母も振り返る。
「カナくん、あんた、クーくん上がってもらわんでいいんか。クーくん、晩御飯、もう食べたん」
「いい、いい!ばーちゃん、俺ん家で勉強するから!晩御飯もめっちゃ食べてきた!カナメ君借りてきます。ごめんね」
「大事な時だでね、しっかりやりゃーよ」
「うん、うん、ありがとう、頑張るね」
「カナくん、じゃあしっかり」
「わかっとる。じゃあ行ってくるで。先寝とってよ」
扉を閉め、鍵をかける。この時間になっても昼の暑さが冷め切らず、蒸し暑い。おまけに風もないもんだから、クユルの家までの距離ですら歩くだけで汗が浮く。
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