第二章
第二章:1
「いやー、パンクしてるのにパクってどうすんだろなぁ」
クユルは俺の家の前で自転車を停めて、またしても荷台に乗っている俺に向かって声をかける。
「知らねーよ。バラして売るかでもするんじゃねぇの。どうでもええわい」
「荒れてんね」
「荒れるだろ。明日からどうすんだ俺」
困っていた。うちには自転車はあの一台しかなく、車もなければ、あったとしてもそれを運転できる人間がいなかった。通学時に利用する駅まで自転車で十五分。歩けなくはないがその距離をこの時期に歩くのは現実的ではない。
……いや。だが、もう、歩くしかない。それ以外の選択肢がない。
クユルはサドルに腰掛けたまま、ハンドルに片肘を乗せ頬杖をついてこちらを見ていた。丸い目を細め、口角を上げている。困り果ててうんざりしている俺を、明らかに面白がっている。
「クユル、誰かと結託してパクったんだろ。もうわかったから。返せ」
「はぁ?んなことやるか」
飛躍した疑いをかけられたクユルは弾かれたように笑うと、わざとらしく手と首を左右に振りながら「冷静になれ、カナメくん。諦めたまえ」と続けた。
「もう買うしかないんだから。
明日またケツに乗せてってやるからさ、学校終わったら自転車屋行こう。俺、仕事ねーから」
「俺ら、な。何遍も言わせんなよ」
「あぁ。あぁ。ごめんって」
俺を家に送り届けたクユルは、最後は苦笑いを浮かべ「とりあえず、今日七時な」と言い残し、自転車を漕いでいった。
なんやかんやでここまで世話を焼いてくれた背中を見送り、滑りが悪い鍵穴へ多少強引に鍵を差し込む。普通に鍵を開ける要領で回しては駄目で、なにがどう噛み合うのかわからないが、差し込んだ鍵を更に押し込むようにして力を入れるとようやく回り、鍵が開く。引き戸を開け、玄関にある靴を見て声をあげる。
「ただいま」
返事はないが家中に漂う匂いと食器棚を開ける音で、家に居ることを確信する。居間まで入り台所とを仕切る暖簾を捲ると、食器棚に向かい合うようにして立っていた祖母の横顔と目があった。俺を見るなり食器に伸ばそうとしていた手を引っ込め、割烹着の腹部を両手でこねながら「あ?いつの間に帰ってきたん」と額に刻まれた皺を更に深くさせた。
「ただいま」
「ほれ」
花柄が印字されたガラスのコップに並々一杯の麦茶が注がれ、差し出される。いらないとも言えず黙って受け取り、二回、口をつける。
祖母はと言うと既に切り替えており、食器棚の前に戻っては先ほど同様立ち尽くしていた。品定めするように食器へ視線を這わせ、自身の胸元と同じ高さに重ねられていた平皿へと手を伸ばす。
そんな祖母の様子を見て、火がついているコンロへ気にかける。深さのある鍋の形状と、部屋中に漂う香りで何かの煮物なのだと想像がついた。平皿を取ろうとしている祖母の手を遮るように、身体を入れる。
「ばーちゃん、俺が取るわ。本当はどの食器がいいの」
「あの、あれ。上の。赤いの」
「これね」
「違う、その横の」
「これか」
それは濡れたように光を反射する、朱色の小振りな茶碗であった。年に数回しか使うことのない茶碗は、祖母には到底手の届かない高い棚に置いてあった。俺は頭上へ手を伸ばし、祖母に渡す。お目当てのものと一致していたようで、祖母は何も言わないまま受け取るとコンロの方に戻って行った。
誰に言うわけでもない声量で、祖母が呟く。
「今日はあれの命日だで」
あれとは俺にとっての父親で、祖母にとっては息子のことを指す。俺がまだ小学生にもなっていない頃に事故で亡くなっている父親は、友人を乗せた車を運転し、崖から落ちた。なんでも父親は、峠を走らせていた際に足元に転がったペットボトルを取ろうとしたのだと、同乗していた友人が証言したらしい。もう十年以上も前の事だ。
葬儀の時、どこの親戚かもわからない人間が祖母に向かって「でもまだ良かったと思わんと。これが人様だったら、あんた」と言っていたことだけは覚えている。助手席と後部座席に乗っていた友人は皆、重症ではあったものの命は助かった。
それからは祖母に引き取られ、二人で生活している。と言っても、父親が亡くなる前から祖母の家にて三人で暮らしていたため、人間が一人減ったという方が感覚としては正しい。母親に至っては面影すら記憶になく、祖母は「ろくな女じゃあないでな、あんなん。覚えとらんくてええわ」と吐き捨てていた。母親の話になると途端に機嫌が悪くなるため、そうまでして知りたいわけでもないし、もう随分と聞かずにいる。
祖母は口の中で何かを言いながら、先ほど渡した茶碗へ茶色く染みた大根や里芋を三つ四つおたまで掬い入れ煮汁をひとかけすると、台所を出ていった。床を擦る音が遠ざかっていく方向からするに、父や祖父の写真が飾ってある仏壇に供えに行ったのだろう。
コップを見つめる。
つい先ほどクユルの家で飲んできた麦茶で胃が満たされており、なかなか進まない。それどころか、麦茶の匂いで若干の吐き気すら感じている。胃から空気がせり上がってくるのとともに液体も出してしまいそうだ。
祖母が俺のために注いでくれた麦茶が静かに揺れているのを眺め、シンクまで行き、コップを横にする。液体が高い位置から落ちていく鈍い音が、シンクの中で反響する。茶色く濁った水がだらだらと排水溝へ吸い込まれるのを見て、煙草の吸い殻が浸かった水も同じような色だったなと思い出した。ぼんやりとした意識の中、空になったコップに水道水を入れて麦茶が一滴も残らないようにシンクの中へ回しかける。
コップを洗っていると祖母が戻ってきた。
「カナくん、手ぇ合わせたん?」
「まだだよ、さっき帰ってきたばかりだから。
この後すぐ行くわ」
「早よ行きゃあね」
コップを拭いて食器棚に戻し台所を出る際に、祖母の背中へ「ああ、そういや」と声をかけた。
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