第二章:5

「うい、お疲れさん」


 ステンレス製の高さが十五センチ程あるコップを片手に、部屋の奥からクユルが歩いてきた。もう片方の手は灰皿とライター、そして赤いパッケージの煙草。赤マル、と呼ばれているらしい。なにが丸なのかと思っていたが、銘柄を略して言っているのだと最近知った。ここで吸うのだとわかったので扉を開けると、クユルが「それ、アイツの靴のそれ、扉に挟んでいいわ」と大きな黒いサンダルを顎で指す。え、と一瞬躊躇うと、クユルは苦笑いを浮かべ、くたびれたサンダルを数回足で小突くと扉に挟んだ。俺に向かってコップを差し出す。


「うわーっ、ありがてぇー」


 受け取りコップの中に目を移すと、ここまでよくぞ溢さずに持ってきたなと感心させられる程、コップのふちギリギリいっぱいまでに麦茶が入っていた。クユルを一瞥すると片眉と口角を上げていたためこの量は悪意なのだと察したが、今の俺には有難さしかなく、黙ってふちに口をつけ、そのまま一呼吸も挟まずに飲んでいく。

「……え?……おー、おー、おー」と戸惑うクユルの声が聞こえたが、構わず続け、一気に飲み干した。冷たい液体が木の根を辿るように身体中に広がっていく。ほてった身体を内側から冷やしてくれるような感覚に、ああ、生き返ると、心底思う。息を大きく吐き、吸い込むと、麦茶の香ばしい香りが鼻を抜けた。煙草の匂いが一瞬だけかき消される。



「飲みっぷりがCMじゃん」


「あぁ、やばい。調子乗った。吐く」


「吐くぅ?ちょい。マジでやめろよ」


「せめぎあいだ。気持ちわりぃ」


「マジでやめろよ……」



 俺が精神を統一させ己の胃袋と対話している間、クユルはというと煙草に火をつけ、壁にもたれるようにして天井を見上げ、ゆっくりと煙を吐いていた。水分よりも煙草なのか、それとも部屋の奥ですでに飲んできたのか。俺が麦茶を身体に染み渡らせるように、クユルはニコチンを体内に入れていた。



 煙草を吸っている間、少し、人が変わったようになる。天真爛漫という言葉の化身であるクユルが、遠い目をして口数が減り、喋ったかと思うと空気を静かに揺らすような喋り方をする。居心地が悪くあまり好きではなかったが、必要な時間だとも理解していた。


 煙草を吸うことでクユルは、この世界で呼吸、息継ぎをしている。未成年のその息継ぎは当然社会へは隠しているのだが、そんなクユルが俺の前では自由に吸うことに悪い気はしなかった。



「……うし、救出しに行くか」



 煙を吐きながら灰皿に煙草を押し付けると、それを持って部屋の奥へと消えていく。その先からビニール袋や細かい鉄がぶつかる音がしばらく聞こえると、蛇口から水が勢いよく出る音、水同士がぶつかるのとそれらが低く渦巻くような音が響く。


 蛇口を捻る音を最後に、半透明のプラスチックの箱と料理には使用していないのだろうと推測できる黒く汚れたボウル、そして水が入ったペットボトルを抱え、クユルが戻ってきた。自分でパンクを修理したことはないが、車体からゴムの車輪を外しそれを溜めた水に浸して空気の出所を探すのだと、幼少期に自転車屋で見たことがある。



「いやマジで頼もしいわ」


「俺のやつも何回も直してんのよ。もう慣れちゃった」



 そうして先ほどの場所まで二人乗りにて颯爽と戻ると俺の自転車は見事に姿を消しており、そこにあったはずの虚無に向かってうろたえる俺の横で、クユルは腹を抱えて笑っていた。

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